トピック詳細
茶話会に出席、訓話をなす
財団法人埼玉学生誘掖会【埼玉・東京】
『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年-昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 5章 教育 / 3節 其他ノ教育関係 / 2款 財団法人埼玉学生誘掖会 【第45巻 p.241-242】
1919(大正8)年10月4日(79歳)
栄一、是日開かれたる当会の茶話会及び十一月二日の創立記念茶話会に出席し、訓話をなす。
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[ 解説 ]  埼玉学生誘掖会とは、在京の埼玉県出身学生のための寄宿舎設置等、学生支援を目的に1902(明治35)年に誕生した団体です。創立時より没年に至るまで同会会頭を務めた渋沢栄一は、埼玉学生誘掖会寄宿舎で定期的に開催される茶話会にも出席、たびたび訓話をなしています。
 この日の訓話の内容は『渋沢栄一伝記資料』には見あたりませんが、第45巻p.255-259には、栄一の没後に『竜門雑誌』に掲載された「埼玉学生誘掖会と青淵先生」の再録により、同会設立経緯と茶話会での栄一の様子などが次のように紹介されています。この記事を著した斎藤阿具(さいとう・あぐ、1868-1942)は、埼玉出身の歴史学者で、1908(明治41)年に栄一に請われて埼玉学生誘掖会寄宿舎副監督に就任、後に監督、専務理事等を歴任した人物です。
「 青渊先生は [中略] 多くの大小私立学校を援護して、其の経済的基礎を固からしめたが、我が埼玉学生誘掖会に在りては、其の創立の時より自ら会頭となられて、他界さるゝまで、終始一貫熱誠を以て常に其の発育を図り、且つ其の成長を観て楽まれた。此会は先生の事業としては小なるものであつたが、併し先生に取つては、宛も一愛児の如きものであつたのである。
 我が誘掖会の創立を知るには埼玉学友会に言及するの要がある。明治二十年頃帝国大学・第一高等中学校・高等商業学校等の学生等が中心となつて学友会を作り、時々会合した。[中略] 斯かること十余年に及び、先輩にも漸く関係する者が出来たので、其頃の学生等は我県の在京学生の為に寄宿舎を建設して、相共に切磋勉学せんとの運動を起した。蓋し大藩の在つた諸県には、夙に藩主の立てた寄宿舎があつて、同県出身の学徒は其処に起臥して、修学上・人格陶冶上大に利益を得たが、我県には小藩や天領のみ在つたので斯様な寄宿舎がなく我等は常に他県学生を羨望したものであつた。当時此の運動を起した者は、諸井六郎・竹井耕一郎・野口弘毅・諸井四郎・渋沢元治・長島隆二・野崎新太郎等の諸氏である。斯くて学生等は或は先輩を歴訪し、或は地方に遊説し、又学友会報を発行して、県人の同情を喚起し、資金の醵集に努めたが、如何せん彼等の力では目的を遂行することが出来ぬ。そこで我県出身の第一人たる青渊先生の学友会長たらんことを懇請し、幸に承諾を得たのである。是れ明治三十四年の事である。
 是が新発展の基となり、先輩諸氏は先生の飛鳥山邸其他に屡々会合して議を練り、其の結果全県人一団となつて、[中略] 茲に明治三十五年三月を以て埼玉学生誘掖会が創立され、青渊先生が会頭に、男爵佐野延勝氏が副会頭に推挙された。[中略]
 当寄宿舎の設置は最も時宜に適したものと見え、入舎を希望する者続々出で、有為の青年等入りて後生を指導し、舎生は元気活潑の気風に富み、本会設立の意義も明に認められた。依て四十一年には第二寄宿舎を隣地に建て、舎生も青年・中年・幼年の三寮に別ち、別々に監督することゝなつた。そして明治の末年から大正の前半に亘つては、舎室の収容力も極度に使用され、在舎生は常に百人を越え、それ以上は已むを得ず入舎を謝絶する勢であつた。尚本会は明治四十四年に財団法人を認可されたので、此際更に基金を募集し、基礎愈々堅実となつた。創立の時も此時も、先生が最大多額の出資者であつたことは勿論であるが、此の資金募集の時に先生は、『此会など自分一人の力で立つるは敢て難事でない、併しそれでは渋沢一人の私有物となつてしまう、私は此会を埼玉県人全体の精神の籠つたものとしたいのだ』と申された。[中略]
 先生は舎生の茶話会には、喜んで必ず出席され、他の先輩は寧ろ先生に引ずられ気味であつた。或時舎生の方で日を定めてから先生に申出たところ、先生は不機嫌で、自分は多忙の身故、勝手に定められては困る、予め我が都合を聴いてから、日を決定せよと申された。その代り一旦承諾された以上は、必ず出席されて、舎生と共に粗末な晩餐を甘さうに召上り、又夜遅くまで舎生の幼稚な演説や余興を面白げに傍聴観覧された。尚毎回舎生に対して懇切熱誠なる訓話をなされたが其の説く所は、少壮学者が単に学識に基づいて述ぶると異なつて、多年の貴き体験に由るので、深き感銘を舎生に与へ、舎生は皆非常に先生を尊敬愛慕した。
 [中略] 先年先生が米寿になられた時に、舎友会は先生の油絵肖像を作つて先生に贈呈し、謝恩の意を表した。此の肖像は先生から更に本会に下されて、舎の集会室に掲げられ、舎生は日夕先生の温容に接してゐた。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第45巻p.255-259収載 『竜門雑誌』第578号p.15~20(昭和11年11月)斎藤阿具「埼玉学生誘掖会と青渊先生」より)

【参考】
 斎藤阿具「埼玉県[斎藤]喜助の二男。明治二六年東京帝大文科史学科卒。ドイツ、オランダに留学。第一高等学校教授。文学博士。明治元年(一八六八)―昭和一七年(一九四二)」
(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.610収載「宛名人名録」より)

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茶話会に出席、訓話をなす
財団法人埼玉学生誘掖会【埼玉・東京】
1919(大正8)年10月4日(79歳)
栄一、是日開かれたる当会の茶話会及び十一月二日の創立記念茶話会に出席し、訓話をなす。
[ 解説 ]
 埼玉学生誘掖会とは、在京の埼玉県出身学生のための寄宿舎設置等、学生支援を目的に1902(明治35)年に誕生した団体です。創立時より没年に至るまで同会会頭を務めた渋沢栄一は、埼玉学生誘掖会寄宿舎で定期的に開催される茶話会にも出席、たびたび訓話をなしています。
 この日の訓話の内容は『渋沢栄一伝記資料』には見あたりませんが、第45巻p.255-259には、栄一の没後に『竜門雑誌』に掲載された「埼玉学生誘掖会と青淵先生」の再録により、同会設立経緯と茶話会での栄一の様子などが次のように紹介されています。この記事を著した斎藤阿具(さいとう・あぐ、1868-1942)は、埼玉出身の歴史学者で、1908(明治41)年に栄一に請われて埼玉学生誘掖会寄宿舎副監督に就任、後に監督、専務理事等を歴任した人物です。
「 青渊先生は [中略] 多くの大小私立学校を援護して、其の経済的基礎を固からしめたが、我が埼玉学生誘掖会に在りては、其の創立の時より自ら会頭となられて、他界さるゝまで、終始一貫熱誠を以て常に其の発育を図り、且つ其の成長を観て楽まれた。此会は先生の事業としては小なるものであつたが、併し先生に取つては、宛も一愛児の如きものであつたのである。
 我が誘掖会の創立を知るには埼玉学友会に言及するの要がある。明治二十年頃帝国大学・第一高等中学校・高等商業学校等の学生等が中心となつて学友会を作り、時々会合した。[中略] 斯かること十余年に及び、先輩にも漸く関係する者が出来たので、其頃の学生等は我県の在京学生の為に寄宿舎を建設して、相共に切磋勉学せんとの運動を起した。蓋し大藩の在つた諸県には、夙に藩主の立てた寄宿舎があつて、同県出身の学徒は其処に起臥して、修学上・人格陶冶上大に利益を得たが、我県には小藩や天領のみ在つたので斯様な寄宿舎がなく我等は常に他県学生を羨望したものであつた。当時此の運動を起した者は、諸井六郎・竹井耕一郎・野口弘毅・諸井四郎・渋沢元治・長島隆二・野崎新太郎等の諸氏である。斯くて学生等は或は先輩を歴訪し、或は地方に遊説し、又学友会報を発行して、県人の同情を喚起し、資金の醵集に努めたが、如何せん彼等の力では目的を遂行することが出来ぬ。そこで我県出身の第一人たる青渊先生の学友会長たらんことを懇請し、幸に承諾を得たのである。是れ明治三十四年の事である。
 是が新発展の基となり、先輩諸氏は先生の飛鳥山邸其他に屡々会合して議を練り、其の結果全県人一団となつて、[中略] 茲に明治三十五年三月を以て埼玉学生誘掖会が創立され、青渊先生が会頭に、男爵佐野延勝氏が副会頭に推挙された。[中略]
 当寄宿舎の設置は最も時宜に適したものと見え、入舎を希望する者続々出で、有為の青年等入りて後生を指導し、舎生は元気活潑の気風に富み、本会設立の意義も明に認められた。依て四十一年には第二寄宿舎を隣地に建て、舎生も青年・中年・幼年の三寮に別ち、別々に監督することゝなつた。そして明治の末年から大正の前半に亘つては、舎室の収容力も極度に使用され、在舎生は常に百人を越え、それ以上は已むを得ず入舎を謝絶する勢であつた。尚本会は明治四十四年に財団法人を認可されたので、此際更に基金を募集し、基礎愈々堅実となつた。創立の時も此時も、先生が最大多額の出資者であつたことは勿論であるが、此の資金募集の時に先生は、『此会など自分一人の力で立つるは敢て難事でない、併しそれでは渋沢一人の私有物となつてしまう、私は此会を埼玉県人全体の精神の籠つたものとしたいのだ』と申された。[中略]
 先生は舎生の茶話会には、喜んで必ず出席され、他の先輩は寧ろ先生に引ずられ気味であつた。或時舎生の方で日を定めてから先生に申出たところ、先生は不機嫌で、自分は多忙の身故、勝手に定められては困る、予め我が都合を聴いてから、日を決定せよと申された。その代り一旦承諾された以上は、必ず出席されて、舎生と共に粗末な晩餐を甘さうに召上り、又夜遅くまで舎生の幼稚な演説や余興を面白げに傍聴観覧された。尚毎回舎生に対して懇切熱誠なる訓話をなされたが其の説く所は、少壮学者が単に学識に基づいて述ぶると異なつて、多年の貴き体験に由るので、深き感銘を舎生に与へ、舎生は皆非常に先生を尊敬愛慕した。
 [中略] 先年先生が米寿になられた時に、舎友会は先生の油絵肖像を作つて先生に贈呈し、謝恩の意を表した。此の肖像は先生から更に本会に下されて、舎の集会室に掲げられ、舎生は日夕先生の温容に接してゐた。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第45巻p.255-259収載 『竜門雑誌』第578号p.15~20(昭和11年11月)斎藤阿具「埼玉学生誘掖会と青渊先生」より)

【参考】
 斎藤阿具「埼玉県[斎藤]喜助の二男。明治二六年東京帝大文科史学科卒。ドイツ、オランダに留学。第一高等学校教授。文学博士。明治元年(一八六八)―昭和一七年(一九四二)」
(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.610収載「宛名人名録」より)
出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年-昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 5章 教育 / 3節 其他ノ教育関係 / 2款 財団法人埼玉学生誘掖会 【第45巻 p.241-242】