出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.77
画像名:三重紡績四日市工場 1(七十寿祝賀会記念帖より)
文献に記載されている解説文等:
[P.076] 明治十三年大阪紡績の創立が企画され、栄一は創立世話掛としてこれに当った。当時英国に留学中の山辺丈夫に研究を依頼し帰国を待って創立、大阪府西成郡三軒家村に工場を建設し資本金二十八万円を以って、操業を開始したのは十六年であった。
三重紡績は元川島紡績所と称し、伊藤伝七が経営に当っていたが、明治十九年、栄一は更に規模を拡大する事を進め、資本金二十二万円を以って三重紡績株式会社を発足せしめた。
栄一の紡績業に対する関心は深く、紡績聯合会相談役として棉花輸入関税免除に努力し、更にボンベー棉の輸入については、その輸送は英国P・O会社の独占であったものを、明治二十六年日本郵船とタタ商会の間を斡旋して新たにボンベー航路を開かしめる等頗る尽力した。
[P.076] 明治十三年大阪紡績の創立が企画され、栄一は創立世話掛としてこれに当った。当時英国に留学中の山辺丈夫に研究を依頼し帰国を待って創立、大阪府西成郡三軒家村に工場を建設し資本金二十八万円を以って、操業を開始したのは十六年であった。
三重紡績は元川島紡績所と称し、伊藤伝七が経営に当っていたが、明治十九年、栄一は更に規模を拡大する事を進め、資本金二十二万円を以って三重紡績株式会社を発足せしめた。
栄一の紡績業に対する関心は深く、紡績聯合会相談役として棉花輸入関税免除に努力し、更にボンベー棉の輸入については、その輸送は英国P・O会社の独占であったものを、明治二十六年日本郵船とタタ商会の間を斡旋して新たにボンベー航路を開かしめる等頗る尽力した。