事業名:宝田石油株式会社
宝田石油株式会社長岡停車場前油槽車
長岡市
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは参考としてJR長岡駅を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.240 宝田石油株式会社
画像名:宝田石油株式会社長岡停車場前油槽車
文献に記載されている解説文等:
新潟県長岡市阪上町
 同社は明治二十六年二月資本金一万五千円を以て長岡町に創立せらる。当時石油事業漸く発達の機運に遭遇し、会社及び組合続々組織せらるゝに至りたりと雖、永遠の大計を画し、真面目に事業を経営するものなく、一般に之を賎蔑するの傾向ありしを以て、同社は斯業の前途を憂ひ、之が弊害を矯正して其発達を擁護せんと欲し、卒先して石油界の合同を首唱し、三十二年迄に十三の会社及び組合を買収し、以て合同の緒を開きたり。
 三十四年五月偶々大隈伯彼地に遊びて、石油界に於ける小資本分立は決して斯界の進歩革新を謀る所以にあらざるを汎く鉱業家に勧告し、現社長山田又七氏、専務取締役渡辺藤吉氏等亦熱心に石油界現状維持の不可なるを説き、合同の最大急務を唱道せしかば、其機漸く熟し、遂に二十一の会社及び組合を買収して、茲に第一回の合同を成功したり。
 資本の結合と経営の集中とより生ずる合同の利益は、同会社が第一回合同以来の成績によりて明かに立証せられたれば、多数の同業者は倍々小資本分立の不利を認め、進んで同社の買収に応ずるの趨勢を示せり。是に於て同社は更に他会社及び組合の買収に着手し、三十七年八月より僅に三箇月の間に於て十八の会社及び組合を買収し、以て第二回の合同を遂げたり。
 爾来戦後の我経済的分野は著しく増大し、外油との競争日に激烈となり、経済社会の大勢は大規模大経営の必要を告ぐること弥々急なり。是に於てか同社は更に第三回の合同を計り、三十九年十月以降村井石油礦業部を首めとし、三十六の会社及び組合を買収し、其出油量に於て日産優に六百五十石の増加を見るに至れり。
 同社は又四十年度前半期に於て更に五個の会社及び組合を買収したるを以て、其創立より最近に至るまで買収したる数既に九十三の多きに達せり。尚ほ同社は今後と雖、有望と認むるものは之を買収し、以て利益の増進を図り、斯業の発展に勗むること敢て渝らざるべし。
 又同社は戦後経済界の発展に伴ひ、四十年二月臨時株主総会に於て資本金を一千万円に増加すると共に、固形鉱物の採掘、製煉、販売の兼営を決議せり。因つて之が準備のため二月以来専門技師を各地に派遣し、具さに調査を遂げたる結果、第一着手として六月一日畑銅山組合を買収し、以て斯業経営の端緒を開き、畑鉱場を新設するに至れり。
 畑銅山は明治三十五年に発見せられて以来、同社買収に至るまで経営者を代ふること巳に三回、畑銅山組合の時代に及び、稍々好況を呈し、煉銅月産五六千斤の間を昇降せしが、設備未だ全からざりしなり。然るに同社之を買収し、日猶ほ浅きにも関はらず、設備に資を投じ、其整理を図りしを以て、産額頓に増加し、七月に至りては優に八千斤の煉銅を産出するに至り、加ふるに事業の進捗を企画する為、七月より更に大里鉱場を設置して着々工事を進めつゝあれば、期年ならずして発達の見るべきあるを疑はざるなり。されど是は着手の一端に過ぎざれば、益々調査を進行し、近き将来に於て石油礦業と相並びて一大発展をなすに至るべし。
採油及坑井数
 鑿井方法には手掘、上総掘、軽便鑿井、機械鑿井等の数種ありと雖、同社は専ら米国式機械鑿井法を用ふ。而して現在の礦区は新潟、長野、静岡県を始めとし、遠く台湾、北海道に亘り、採堀地二千五百二十八万三百十三坪、試掘及び出願地七千二百六十七万三千二百七十八坪を有し、四箇の出張所と二十八箇所の礦場とに由りて経理せられ、採油坑井七百八十にして、四十年四月より九月に至る最近半期間の油量実に四十万三千百十余石に達せりと云ふ、亦以て其盛況の如何を知るべきなり。
製油及販売
 同社は製油所を長岡、柏崎、新津、沼垂の四箇所に設け、何れも大小数十基の蒸溜釜を装置し、附近礦山より鉄管若しくは油槽車の便によりて原油を受入れ、各種の灯油、軽油並に礦油を製造し、該製品の販売は挙げて之を株式会社国油共同販売所に託せり。猶ほ同社は第一製油所に附属して製鑵所を設け、新式の器械を備へて所要の石油容器を製造す。
資本金及積立金
 明治二十六年二月同社創立の当時は僅に一万五千円の資本なりしが、爾来事業の発展と共に増資すること十回、現在資本金一千万円、内払込資本金六百二十五万円にして、積立金一百五十八万四千九百七十円、外に財産減価償却金一百二十二万九千五百円なり。
出張所及製油所
東山出張所 は古志郡山本村大字浦瀬に在り、左の四礦場を管理す。
 比礼礦場(古志郡)、浦瀬礦場(同)、加坪礦場(同)、桂沢礦場(同)
西山出張所 は刈羽郡二田場大字長嶺に在り、左の五礦場を管理す。
 長嶺礦場(刈羽郡)、鎌田礦場(同)、後谷礦場(同)、別山礦場(同)、尼瀬礦場(三島郡)
牧出張所 は中頸城郡高田町に在り、左の三礦場を管理す。
 昆子礦場(東頸城郡)、原礦場(同)、玄藤寺礦場(中頸城郡)
新津出張所 は中蒲原郡新津町に在り、左の五礦場を管理す。
 小口礦場(中蒲原郡)、熊沢礦場(同)、朝日礦場(同)、塩谷礦場(同)、東島礦場(同)
本社に於ては左の十一礦場を直轄す。
 小千谷礦場、山谷礦場(北魚沼郡)、中永礦場、鳥越礦場(三島郡)、磯部礦場(群馬県碓氷郡)、松の山礦場(東頸城郡)、叶津礦場、蒲生礦場。木の根礦場(福島県南会津郡)、畑礦場(新潟県岩船郡)大里礦場(山形県西置賜郡)
第一製油所(長岡市)、附属製油所(同)
第二製油所(刈羽郡柏崎町)、附属製油所(同郡二田村及び三島郡出雲崎町)
第三製油所(中蒲原郡新津町)
第四製油所(中蒲原郡沼垂町)、附属製油所(新潟市開屋)
 又重役諸氏は左の如し。
  取締役社長 山田又七  専務取締役 渡辺藤吉
  取締役 浅野総一郎  取締役 村井吉兵衛
  取締役 内田三省  取締役 牧口吉重郎
  取締役 田辺貫一  取締役 高山喜代蔵
  監査役 中村平作  監査役 殖栗順平
  監査役 松田周平  監査役 中野貫一
  監査役 新保新造  副支配人 小秋元三八吉
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渋沢ゆかりの地

事業名:宝田石油株式会社
宝田石油株式会社長岡停車場前油槽車
長岡市
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは参考としてJR長岡駅を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.240 宝田石油株式会社
画像名:
宝田石油株式会社長岡停車場前油槽車
文献に記載されている解説文等:
新潟県長岡市阪上町
 同社は明治二十六年二月資本金一万五千円を以て長岡町に創立せらる。当時石油事業漸く発達の機運に遭遇し、会社及び組合続々組織せらるゝに至りたりと雖、永遠の大計を画し、真面目に事業を経営するものなく、一般に之を賎蔑するの傾向ありしを以て、同社は斯業の前途を憂ひ、之が弊害を矯正して其発達を擁護せんと欲し、卒先して石油界の合同を首唱し、三十二年迄に十三の会社及び組合を買収し、以て合同の緒を開きたり。
 三十四年五月偶々大隈伯彼地に遊びて、石油界に於ける小資本分立は決して斯界の進歩革新を謀る所以にあらざるを汎く鉱業家に勧告し、現社長山田又七氏、専務取締役渡辺藤吉氏等亦熱心に石油界現状維持の不可なるを説き、合同の最大急務を唱道せしかば、其機漸く熟し、遂に二十一の会社及び組合を買収して、茲に第一回の合同を成功したり。
 資本の結合と経営の集中とより生ずる合同の利益は、同会社が第一回合同以来の成績によりて明かに立証せられたれば、多数の同業者は倍々小資本分立の不利を認め、進んで同社の買収に応ずるの趨勢を示せり。是に於て同社は更に他会社及び組合の買収に着手し、三十七年八月より僅に三箇月の間に於て十八の会社及び組合を買収し、以て第二回の合同を遂げたり。
 爾来戦後の我経済的分野は著しく増大し、外油との競争日に激烈となり、経済社会の大勢は大規模大経営の必要を告ぐること弥々急なり。是に於てか同社は更に第三回の合同を計り、三十九年十月以降村井石油礦業部を首めとし、三十六の会社及び組合を買収し、其出油量に於て日産優に六百五十石の増加を見るに至れり。
 同社は又四十年度前半期に於て更に五個の会社及び組合を買収したるを以て、其創立より最近に至るまで買収したる数既に九十三の多きに達せり。尚ほ同社は今後と雖、有望と認むるものは之を買収し、以て利益の増進を図り、斯業の発展に勗むること敢て渝らざるべし。
 又同社は戦後経済界の発展に伴ひ、四十年二月臨時株主総会に於て資本金を一千万円に増加すると共に、固形鉱物の採掘、製煉、販売の兼営を決議せり。因つて之が準備のため二月以来専門技師を各地に派遣し、具さに調査を遂げたる結果、第一着手として六月一日畑銅山組合を買収し、以て斯業経営の端緒を開き、畑鉱場を新設するに至れり。
 畑銅山は明治三十五年に発見せられて以来、同社買収に至るまで経営者を代ふること巳に三回、畑銅山組合の時代に及び、稍々好況を呈し、煉銅月産五六千斤の間を昇降せしが、設備未だ全からざりしなり。然るに同社之を買収し、日猶ほ浅きにも関はらず、設備に資を投じ、其整理を図りしを以て、産額頓に増加し、七月に至りては優に八千斤の煉銅を産出するに至り、加ふるに事業の進捗を企画する為、七月より更に大里鉱場を設置して着々工事を進めつゝあれば、期年ならずして発達の見るべきあるを疑はざるなり。されど是は着手の一端に過ぎざれば、益々調査を進行し、近き将来に於て石油礦業と相並びて一大発展をなすに至るべし。
採油及坑井数
 鑿井方法には手掘、上総掘、軽便鑿井、機械鑿井等の数種ありと雖、同社は専ら米国式機械鑿井法を用ふ。而して現在の礦区は新潟、長野、静岡県を始めとし、遠く台湾、北海道に亘り、採堀地二千五百二十八万三百十三坪、試掘及び出願地七千二百六十七万三千二百七十八坪を有し、四箇の出張所と二十八箇所の礦場とに由りて経理せられ、採油坑井七百八十にして、四十年四月より九月に至る最近半期間の油量実に四十万三千百十余石に達せりと云ふ、亦以て其盛況の如何を知るべきなり。
製油及販売
 同社は製油所を長岡、柏崎、新津、沼垂の四箇所に設け、何れも大小数十基の蒸溜釜を装置し、附近礦山より鉄管若しくは油槽車の便によりて原油を受入れ、各種の灯油、軽油並に礦油を製造し、該製品の販売は挙げて之を株式会社国油共同販売所に託せり。猶ほ同社は第一製油所に附属して製鑵所を設け、新式の器械を備へて所要の石油容器を製造す。
資本金及積立金
 明治二十六年二月同社創立の当時は僅に一万五千円の資本なりしが、爾来事業の発展と共に増資すること十回、現在資本金一千万円、内払込資本金六百二十五万円にして、積立金一百五十八万四千九百七十円、外に財産減価償却金一百二十二万九千五百円なり。
出張所及製油所
東山出張所 は古志郡山本村大字浦瀬に在り、左の四礦場を管理す。
 比礼礦場(古志郡)、浦瀬礦場(同)、加坪礦場(同)、桂沢礦場(同)
西山出張所 は刈羽郡二田場大字長嶺に在り、左の五礦場を管理す。
 長嶺礦場(刈羽郡)、鎌田礦場(同)、後谷礦場(同)、別山礦場(同)、尼瀬礦場(三島郡)
牧出張所 は中頸城郡高田町に在り、左の三礦場を管理す。
 昆子礦場(東頸城郡)、原礦場(同)、玄藤寺礦場(中頸城郡)
新津出張所 は中蒲原郡新津町に在り、左の五礦場を管理す。
 小口礦場(中蒲原郡)、熊沢礦場(同)、朝日礦場(同)、塩谷礦場(同)、東島礦場(同)
本社に於ては左の十一礦場を直轄す。
 小千谷礦場、山谷礦場(北魚沼郡)、中永礦場、鳥越礦場(三島郡)、磯部礦場(群馬県碓氷郡)、松の山礦場(東頸城郡)、叶津礦場、蒲生礦場。木の根礦場(福島県南会津郡)、畑礦場(新潟県岩船郡)大里礦場(山形県西置賜郡)
第一製油所(長岡市)、附属製油所(同)
第二製油所(刈羽郡柏崎町)、附属製油所(同郡二田村及び三島郡出雲崎町)
第三製油所(中蒲原郡新津町)
第四製油所(中蒲原郡沼垂町)、附属製油所(新潟市開屋)
 又重役諸氏は左の如し。
  取締役社長 山田又七  専務取締役 渡辺藤吉
  取締役 浅野総一郎  取締役 村井吉兵衛
  取締役 内田三省  取締役 牧口吉重郎
  取締役 田辺貫一  取締役 高山喜代蔵
  監査役 中村平作  監査役 殖栗順平
  監査役 松田周平  監査役 中野貫一
  監査役 新保新造  副支配人 小秋元三八吉
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