事業名:北越鉄道株式会社
旧北越鉄道株式会社信濃川架橋工事
新潟市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは旧北越鉄道信濃川架橋近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.59 北越鉄道株式会社
画像名:旧北越鉄道株式会社信濃川架橋工事
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 新潟県長岡市長岡坂之上町七百四十九番地
一 目的事業 直江津新潟間に鉄道を敷設し運輸交通の業を営む
一 創立年月 明治二十八年十二月
一 解散当時資本金 参百七拾万円
一 同上積立金 四万六千九百五拾円
一 沿革
北越の地たる本邦北海岸の中枢に位し、西北一帯は日本海に臨み、東北は羽前、東は岩代、南は上野、西南は信濃、西は越中に界し、面積七百七十方里、人口約一百万、水陸山海の物産に富み、名勝旧跡亦乏しからさるも、山脈東北より南に走り、西南は渺茫たる海洋に侵され、所謂天険四塞、殊に冬春二季は航海殆と絶無にして、厳冬は白雪皚々、馬背負載の途も亦講する能はす、宝蔵空しく埋没せられて自他の利を計るを得す、此に於て政府民間共に疾くより鉄道敷設の必要を認め、屡々計画する所ありたるも時期未た熟せすして成效の運に至らす、漸く明治二十七年に至り民間有志胥謀り、当社創立の事を議し、同年六月青淵先生、末延道成、平岡凞、前島密、山口権三郎、本間新作の諸氏創立委員となり、事務所を東京市日本橋区本石町に設立し、翌年十二月設立免許を得て線路測量の事に著手し、二十九年に至りて漸く精密なる実地測量を了へ、直江津沼垂間を三工区に分ち、第一工区を直江津柏崎間とし、第二工区を柏崎長岡間とし、第三工区を長岡沼垂間となし、同年三月一日を以て第一第三工区の両端より工事に著手し、三十七年四月に至り、直江津新潟間全線の竣工を見るに至れり、偶々同三十九年鉄道国有法の発布せらるるや当社線路は翌四十年八月一日を以て買収せられ、当社は茲に全く解散の巳むなきに至り、目下其清算中にありと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の創立発起人会長にして、会社成立の後は選はれて其監査役となり、後数次再選其職にありしが、明治四十年一月相談役となり以て解散当時に及へり、先是当社は明治三十年以後の財界不況を始め、降雪風雨波涛の襲来等幾多の災厄に遭遇し、屡々悲境に沈淪したりしが、幸に先生の援助と当任者の努力とに依り終に其工事を完成するに至れり、
一 現任役員
清算人会長 渡辺嘉一  専務清算人 久須美秀三郎  清算人 原六郎  清算人 男爵前島密  清算人 末延道成  監査役 大倉喜八郎  監査役 五十嵐甚蔵  監査役 鍵富三作
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渋沢ゆかりの地

事業名:北越鉄道株式会社
旧北越鉄道株式会社信濃川架橋工事
新潟市
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ピンは旧北越鉄道信濃川架橋近辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.59 北越鉄道株式会社
画像名:
旧北越鉄道株式会社信濃川架橋工事
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 新潟県長岡市長岡坂之上町七百四十九番地
一 目的事業 直江津新潟間に鉄道を敷設し運輸交通の業を営む
一 創立年月 明治二十八年十二月
一 解散当時資本金 参百七拾万円
一 同上積立金 四万六千九百五拾円
一 沿革
北越の地たる本邦北海岸の中枢に位し、西北一帯は日本海に臨み、東北は羽前、東は岩代、南は上野、西南は信濃、西は越中に界し、面積七百七十方里、人口約一百万、水陸山海の物産に富み、名勝旧跡亦乏しからさるも、山脈東北より南に走り、西南は渺茫たる海洋に侵され、所謂天険四塞、殊に冬春二季は航海殆と絶無にして、厳冬は白雪皚々、馬背負載の途も亦講する能はす、宝蔵空しく埋没せられて自他の利を計るを得す、此に於て政府民間共に疾くより鉄道敷設の必要を認め、屡々計画する所ありたるも時期未た熟せすして成效の運に至らす、漸く明治二十七年に至り民間有志胥謀り、当社創立の事を議し、同年六月青淵先生、末延道成、平岡凞、前島密、山口権三郎、本間新作の諸氏創立委員となり、事務所を東京市日本橋区本石町に設立し、翌年十二月設立免許を得て線路測量の事に著手し、二十九年に至りて漸く精密なる実地測量を了へ、直江津沼垂間を三工区に分ち、第一工区を直江津柏崎間とし、第二工区を柏崎長岡間とし、第三工区を長岡沼垂間となし、同年三月一日を以て第一第三工区の両端より工事に著手し、三十七年四月に至り、直江津新潟間全線の竣工を見るに至れり、偶々同三十九年鉄道国有法の発布せらるるや当社線路は翌四十年八月一日を以て買収せられ、当社は茲に全く解散の巳むなきに至り、目下其清算中にありと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の創立発起人会長にして、会社成立の後は選はれて其監査役となり、後数次再選其職にありしが、明治四十年一月相談役となり以て解散当時に及へり、先是当社は明治三十年以後の財界不況を始め、降雪風雨波涛の襲来等幾多の災厄に遭遇し、屡々悲境に沈淪したりしが、幸に先生の援助と当任者の努力とに依り終に其工事を完成するに至れり、
一 現任役員
清算人会長 渡辺嘉一  専務清算人 久須美秀三郎  清算人 原六郎  清算人 男爵前島密  清算人 末延道成  監査役 大倉喜八郎  監査役 五十嵐甚蔵  監査役 鍵富三作
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