事業名:渋沢商店
横浜渋沢商店
横浜市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
当該地(本町三丁目51-2/当時)未詳。ピンは参考として現在の横浜市中区本町三丁目を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.117 渋沢商店
画像名:横浜渋沢商店
文献に記載されている解説文等:
一 本店
所在地 横浜市本町三丁目五十一番地
営業 生糸貿易及生糸委托販売業
壱箇年販売高 弐万参千梱
一 支店
所在地 東京市深川区福住町八番地
営業 東京廻米問屋米穀委托販売業
壱箇年販売高 参拾万俵
一 沿革
当商店は明治八年渋沢喜作氏の創設せる所にして、当時我国交通の便未た開けす金融機関亦整備せさりしを以て、上信奥羽の各地に於ける生糸業者、米穀商等は其販売に非常の不便を感せしかは、当商店は斯業発展の為め、率先して荷為替及運送保険等の業務を開始し、以て地方荷主の便益を計りしが、後時勢の進運に伴ひ同地方に於ける金融及交通上の機関漸次其面目を一進し、稍々完備の緒に著きしを以て、明治十三年五月其業務を変更して、生糸及米穀の委托販売に改め、横浜本店に於ては生糸部を、東京支店にては米穀部を各分掌開始せり、然るに明治十八九年より二十二年に至るの交、営業上の困難に遭遇せしを以て、明治二十二年喜作氏は退隠し男作太郎氏代て之を継承し、書上順四郎氏を本店支配人に、上原豊吉氏を支店支配人に任し、以て両店の業務を統轄せしが、本年六月氏の病を以て歿するや、弟義一氏之を継承し以て今日に迨へり、当商店明治二十二三年頃の生糸入荷高は壱万余梱に過きさりしが、現今にては其倍額に達し、東京支店の米穀委托販売高も年額参拾万俵を超ゆるに至れりと云ふ、
一 当商店と青淵先生との関係
青淵先生は渋沢喜作氏とは親族の間柄なるを以て、同氏が当商店を開設するや直接間接に力を致されしが、明治二十二年当商店改革に際しては、特に多大の援助を与へられ、爾来其業務経営に付き、常に監督輔導の任に当られつつあり、
一 現任役員
店主 渋沢義一  生糸部支配人 書上順四郎  生糸部副支配人 桃井可雄  米穀部支配人 上原豊吉
画像2

渋沢ゆかりの地

事業名:渋沢商店
横浜渋沢商店
横浜市
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
当該地(本町三丁目51-2/当時)未詳。ピンは参考として現在の横浜市中区本町三丁目を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.117 渋沢商店
画像名:
横浜渋沢商店
文献に記載されている解説文等:
一 本店
所在地 横浜市本町三丁目五十一番地
営業 生糸貿易及生糸委托販売業
壱箇年販売高 弐万参千梱
一 支店
所在地 東京市深川区福住町八番地
営業 東京廻米問屋米穀委托販売業
壱箇年販売高 参拾万俵
一 沿革
当商店は明治八年渋沢喜作氏の創設せる所にして、当時我国交通の便未た開けす金融機関亦整備せさりしを以て、上信奥羽の各地に於ける生糸業者、米穀商等は其販売に非常の不便を感せしかは、当商店は斯業発展の為め、率先して荷為替及運送保険等の業務を開始し、以て地方荷主の便益を計りしが、後時勢の進運に伴ひ同地方に於ける金融及交通上の機関漸次其面目を一進し、稍々完備の緒に著きしを以て、明治十三年五月其業務を変更して、生糸及米穀の委托販売に改め、横浜本店に於ては生糸部を、東京支店にては米穀部を各分掌開始せり、然るに明治十八九年より二十二年に至るの交、営業上の困難に遭遇せしを以て、明治二十二年喜作氏は退隠し男作太郎氏代て之を継承し、書上順四郎氏を本店支配人に、上原豊吉氏を支店支配人に任し、以て両店の業務を統轄せしが、本年六月氏の病を以て歿するや、弟義一氏之を継承し以て今日に迨へり、当商店明治二十二三年頃の生糸入荷高は壱万余梱に過きさりしが、現今にては其倍額に達し、東京支店の米穀委托販売高も年額参拾万俵を超ゆるに至れりと云ふ、
一 当商店と青淵先生との関係
青淵先生は渋沢喜作氏とは親族の間柄なるを以て、同氏が当商店を開設するや直接間接に力を致されしが、明治二十二年当商店改革に際しては、特に多大の援助を与へられ、爾来其業務経営に付き、常に監督輔導の任に当られつつあり、
一 現任役員
店主 渋沢義一  生糸部支配人 書上順四郎  生糸部副支配人 桃井可雄  米穀部支配人 上原豊吉
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