事業名:東京市養育院感化部井之頭学校
東京市養育院感化部井ノ頭学校
武蔵野市
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の井之頭学校(北多摩郡武蔵野村大字吉祥寺)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.127 東京市養育院
画像名:東京市養育院感化部井ノ頭学校
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市小石川区大塚辻町
一 目的事業 鰥寡孤独の養育並に浮浪少年の感化教育
一 創立年月日 明治五年十月
一 現在基本財産
   基本金 弐拾九万円
   外に敷地 参万四千百五拾七坪、建物五千弐百参拾坪
一 壱箇年経費 拾参万七千円
一 収容人員 創立当時百四拾余人、現今千七百余人
一 分院所在地
   巣鴨分院 府下北豊島郡巣鴨村
   安房分院 千葉県安房国船形町
   感化部井頭学校 府下北多摩郡武蔵野村大字吉祥寺
一 沿革
当院は、明治五年十月東京府養育院の名称を以て、本郷旧加州邸を借受け創立したるに起因し、爾来年を閲すること三十有九年、其間収容したる鰥寡孤独弐万六千七百余人、内出院活動せるもの壱万弐千八百余人に達せり、本院は設立以来幾多の困難に遭遇せしも漸次其事業を拡張し、明治三十七年には府下北多摩郡武蔵野村に感化部井ノ頭学校を設置し、三十三年には安房国勝山町に病弱幼児の転地療養所を設け、(同所は四十二年四月船形町に新築移転して安房分院と改称す)更に四十二年三月には府下巣鴨に巣鴨分院を開設して各々良好なる成績を挙けつつあり、当院現在の収容人員は壱千七百余人にして、基本財産としては基金弐拾九万円の外敷地参万四千百五拾七坪、建物五千弐百参拾坪の不動産を有せり、又当院は青淵先生の発意により、明治三十九年院資増殖の目的を以て東京市養育院資増殖会なるものを設立し、広く会員を募り一口一箇月金五銭の会費を徴収し、以て当院の基礎を鞏固ならしめんことを期せり、而して此計画は多数慈善家の賛同を得て現今会員数参千九百余人、其口数参万四千口にして、其当院へ寄附せし金額は既に六万八千円に迨へりと云ふ、
一 当院と青淵先生との関係
青淵先生は、当院創立以来今日に至る迄院務を統督し、三十有余年終始一日の如く、孜々として此聖業に尽瘁せられつつあり、明治十四年東京府会に於て当院廃止の議起るや、先生は府会議員を歴訪して其不可なるを論弁し漸く事なきを得たるも、翌十五年に至り再ひ廃止説起り終に之を可決するや、先生は大に之を遺憾とし、一面には府知事並に有志と謀り、他方には自から巨額を寄贈して有志の捐出を勧誘し、以て当院維持の方策を案する等百方尽力到らさるなく、遂に之を市の事業として維持経営するに至らしめたり、蓋し当院今日の隆盛を見る、一に先生の終始渝はらさる熱誠と尽力の多大なるとによらすんはあらさるなり、
一 現任役員
   院長 男爵渋沢栄一  幹事 安達憲忠
   副幹事 高畠登代作  副幹事 桜井円次郎
   副幹事 高田慎吾  医長 橋本節斎
   副医長 橘卓郎
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渋沢ゆかりの地

事業名:東京市養育院感化部井之頭学校
東京市養育院感化部井ノ頭学校
武蔵野市
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の井之頭学校(北多摩郡武蔵野村大字吉祥寺)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.127 東京市養育院
画像名:
東京市養育院感化部井ノ頭学校
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市小石川区大塚辻町
一 目的事業 鰥寡孤独の養育並に浮浪少年の感化教育
一 創立年月日 明治五年十月
一 現在基本財産
   基本金 弐拾九万円
   外に敷地 参万四千百五拾七坪、建物五千弐百参拾坪
一 壱箇年経費 拾参万七千円
一 収容人員 創立当時百四拾余人、現今千七百余人
一 分院所在地
   巣鴨分院 府下北豊島郡巣鴨村
   安房分院 千葉県安房国船形町
   感化部井頭学校 府下北多摩郡武蔵野村大字吉祥寺
一 沿革
当院は、明治五年十月東京府養育院の名称を以て、本郷旧加州邸を借受け創立したるに起因し、爾来年を閲すること三十有九年、其間収容したる鰥寡孤独弐万六千七百余人、内出院活動せるもの壱万弐千八百余人に達せり、本院は設立以来幾多の困難に遭遇せしも漸次其事業を拡張し、明治三十七年には府下北多摩郡武蔵野村に感化部井ノ頭学校を設置し、三十三年には安房国勝山町に病弱幼児の転地療養所を設け、(同所は四十二年四月船形町に新築移転して安房分院と改称す)更に四十二年三月には府下巣鴨に巣鴨分院を開設して各々良好なる成績を挙けつつあり、当院現在の収容人員は壱千七百余人にして、基本財産としては基金弐拾九万円の外敷地参万四千百五拾七坪、建物五千弐百参拾坪の不動産を有せり、又当院は青淵先生の発意により、明治三十九年院資増殖の目的を以て東京市養育院資増殖会なるものを設立し、広く会員を募り一口一箇月金五銭の会費を徴収し、以て当院の基礎を鞏固ならしめんことを期せり、而して此計画は多数慈善家の賛同を得て現今会員数参千九百余人、其口数参万四千口にして、其当院へ寄附せし金額は既に六万八千円に迨へりと云ふ、
一 当院と青淵先生との関係
青淵先生は、当院創立以来今日に至る迄院務を統督し、三十有余年終始一日の如く、孜々として此聖業に尽瘁せられつつあり、明治十四年東京府会に於て当院廃止の議起るや、先生は府会議員を歴訪して其不可なるを論弁し漸く事なきを得たるも、翌十五年に至り再ひ廃止説起り終に之を可決するや、先生は大に之を遺憾とし、一面には府知事並に有志と謀り、他方には自から巨額を寄贈して有志の捐出を勧誘し、以て当院維持の方策を案する等百方尽力到らさるなく、遂に之を市の事業として維持経営するに至らしめたり、蓋し当院今日の隆盛を見る、一に先生の終始渝はらさる熱誠と尽力の多大なるとによらすんはあらさるなり、
一 現任役員
   院長 男爵渋沢栄一  幹事 安達憲忠
   副幹事 高畠登代作  副幹事 桜井円次郎
   副幹事 高田慎吾  医長 橋本節斎
   副医長 橘卓郎
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