事業名:東京商業会議所
東京商業会議所
千代田区
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の東京商工会議所の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.139 東京商業会議所
画像名:東京商業会議所
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市麹町区有楽町一丁目一番地
一 創立年月日 明治二十四年一月十二日
一 沿革
東京商業会議所は明治二十三年九月公布の商業会議所条例に拠り、青淵先生、益田孝、奈良原繁、荘田平五郎、阿部泰蔵、益田克徳、梅浦精一等の諸氏創立委員となり、同二十四年一月十二日を以て設立したるものにして、其前身は東京商法会議所より変形して組織せられたる東京商工会なりとす、抑も東京商法会議所は明治十年、時の工部大蔵両卿の勧誘に従ひ、青淵先生、益田孝、福地源一郎、三野村利助、大倉喜八郎、渋沢喜作、竹中邦香、米倉一平等の諸氏発起人となり、翌十一年三月を以て設立したるものにして、青淵先生之れに会頭として会務を統括し来りしが、偶ま同十四年五月政府は農商工諮問会規則を発布し、尋て同年九月同会設立心得を達せられ、商工会の設立を企画せられたるを以て、先生等屡々官と協商し遂に同十六年十月東京商工会を設立し以て従来の商法会議所に代へたり、斯くて東京商工会は青淵先生会頭の下に政府の諮問に対する応答、商工業上の調査、報告等に任したりしが、同二十三年九月更に今の商業会議所条例公布せらるるに当り、遂に同会を閉鎖して翌二十四年一月東京商業会議所を設立するに至れり、当会議所は商業上の発達を図り若くは其衰頽を防くに必要なる方案を議定し、又は商業に関する法律規則の制定改廃及施行方法、其他商業上に関する意見の開申或は商業事項の諮問に対する応答、商業上紛議の仲裁等を為すを以て其要務とせるものにして、目下我邦商業上緊要の一機関たり、
一 当所と青淵先生との関係
青淵先生は、東京商法会議所時代より会頭の職にありて其会務に尽瘁し、同所が東京商工会となり、次て東京商業会議所となるに及ひても、亦会頭となりて二十有七年間連続其任にありしが、明治三十八年二月に至り病の故を以て其職を辞せられたり、
一 現任役員
   会頭 中野武営  副会頭 日比谷平左衛門
   副会頭 大橋新太郎
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渋沢ゆかりの地

事業名:東京商業会議所
東京商業会議所
千代田区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の東京商工会議所の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.139 東京商業会議所
画像名:
東京商業会議所
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市麹町区有楽町一丁目一番地
一 創立年月日 明治二十四年一月十二日
一 沿革
東京商業会議所は明治二十三年九月公布の商業会議所条例に拠り、青淵先生、益田孝、奈良原繁、荘田平五郎、阿部泰蔵、益田克徳、梅浦精一等の諸氏創立委員となり、同二十四年一月十二日を以て設立したるものにして、其前身は東京商法会議所より変形して組織せられたる東京商工会なりとす、抑も東京商法会議所は明治十年、時の工部大蔵両卿の勧誘に従ひ、青淵先生、益田孝、福地源一郎、三野村利助、大倉喜八郎、渋沢喜作、竹中邦香、米倉一平等の諸氏発起人となり、翌十一年三月を以て設立したるものにして、青淵先生之れに会頭として会務を統括し来りしが、偶ま同十四年五月政府は農商工諮問会規則を発布し、尋て同年九月同会設立心得を達せられ、商工会の設立を企画せられたるを以て、先生等屡々官と協商し遂に同十六年十月東京商工会を設立し以て従来の商法会議所に代へたり、斯くて東京商工会は青淵先生会頭の下に政府の諮問に対する応答、商工業上の調査、報告等に任したりしが、同二十三年九月更に今の商業会議所条例公布せらるるに当り、遂に同会を閉鎖して翌二十四年一月東京商業会議所を設立するに至れり、当会議所は商業上の発達を図り若くは其衰頽を防くに必要なる方案を議定し、又は商業に関する法律規則の制定改廃及施行方法、其他商業上に関する意見の開申或は商業事項の諮問に対する応答、商業上紛議の仲裁等を為すを以て其要務とせるものにして、目下我邦商業上緊要の一機関たり、
一 当所と青淵先生との関係
青淵先生は、東京商法会議所時代より会頭の職にありて其会務に尽瘁し、同所が東京商工会となり、次て東京商業会議所となるに及ひても、亦会頭となりて二十有七年間連続其任にありしが、明治三十八年二月に至り病の故を以て其職を辞せられたり、
一 現任役員
   会頭 中野武営  副会頭 日比谷平左衛門
   副会頭 大橋新太郎
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