事業名:株式会社三越呉服店
一百年前の越後屋
中央区
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の三越本店を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.334 三越呉服店
画像名:一百年前の越後屋
文献に記載されている解説文等:
東京市日本橋区駿河町
 三越呉服店は本邦に於ける最旧最大の呉服店なるは、人皆知る所なり。而も他に率先して破天荒の模範的改良を為すは実に其家風なり。今其起原を略述せんに、三井家の祖先高利氏実兄の江戸に在りて呉服業を営み繁昌せるを聞き、伊勢松阪を出でゝ江戸に来り、今の駿河町に一商店を開始す、即ち越後屋の初代なり。盖し氏の祖父は江州鯰江の城主にして三井越後守高安と称せしに由るものならん。高利氏は勤勉にして商略に富めり。当時商估の風たる、客に由りて価格を二三にするの獘甚し。是に於てか氏は現金懸直なしの正札付営業を創剏せるのみならず、又一反売の不便なるを観破し、長短は客の好むが儘に任せて、反物の切売法を開始し、且つ残余の小裂は之を集めて恵比須講裂と称し、見切売を為しゝかば、其正確にして便利なる、忽ち江戸満都の大評判と為り、繁昌を極むるに至れり。
 且つ高利氏は商機を観るの敏なる、乃ち番頭を長崎に派して和蘭船の輸入品を買収し、之を当時の贅沢心に擲ちしかば是れ亦大に奇利を博しぬ。斯くて次第に業務は発展に発展を重ねて芝屋千両、魚河岸千両、越後屋千両と称せられ、一日千両の商買ある江戸の三繁昌の一と謳はれにき。
 明治二十六年故ありて三井呉服店と改称し、三十七年更に三越呉服店と改称したるは、人の耳目に新なる所なり。現専務取締役日比翁助氏は初代なる高利氏が当時破天荒の創意を実行せしが如く、現代に於て破天荒の設備を施し、万端の営業振に向つて斬新機敏なる経営を実行し、殊にデパートメント、ストーアの魁を為せるのみならず、其親しく欧米を巡視したる所に基きて、尚ほ益々規模の拡張を図り、着々時好に先ちて衆目を驚倒せんとす。故に啻に斯業界の模範と為るに止まらず、延いて各種営業者の新知識と為りつつあり。他方に於ては日本美術を海外に紹介し、今や日本の三越と称すれども、更に世界の三越を以て自ら任ずるものゝ如し。
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渋沢ゆかりの地

事業名:株式会社三越呉服店
一百年前の越後屋
中央区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の三越本店を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.334 三越呉服店
画像名:
一百年前の越後屋
文献に記載されている解説文等:
東京市日本橋区駿河町
 三越呉服店は本邦に於ける最旧最大の呉服店なるは、人皆知る所なり。而も他に率先して破天荒の模範的改良を為すは実に其家風なり。今其起原を略述せんに、三井家の祖先高利氏実兄の江戸に在りて呉服業を営み繁昌せるを聞き、伊勢松阪を出でゝ江戸に来り、今の駿河町に一商店を開始す、即ち越後屋の初代なり。盖し氏の祖父は江州鯰江の城主にして三井越後守高安と称せしに由るものならん。高利氏は勤勉にして商略に富めり。当時商估の風たる、客に由りて価格を二三にするの獘甚し。是に於てか氏は現金懸直なしの正札付営業を創剏せるのみならず、又一反売の不便なるを観破し、長短は客の好むが儘に任せて、反物の切売法を開始し、且つ残余の小裂は之を集めて恵比須講裂と称し、見切売を為しゝかば、其正確にして便利なる、忽ち江戸満都の大評判と為り、繁昌を極むるに至れり。
 且つ高利氏は商機を観るの敏なる、乃ち番頭を長崎に派して和蘭船の輸入品を買収し、之を当時の贅沢心に擲ちしかば是れ亦大に奇利を博しぬ。斯くて次第に業務は発展に発展を重ねて芝屋千両、魚河岸千両、越後屋千両と称せられ、一日千両の商買ある江戸の三繁昌の一と謳はれにき。
 明治二十六年故ありて三井呉服店と改称し、三十七年更に三越呉服店と改称したるは、人の耳目に新なる所なり。現専務取締役日比翁助氏は初代なる高利氏が当時破天荒の創意を実行せしが如く、現代に於て破天荒の設備を施し、万端の営業振に向つて斬新機敏なる経営を実行し、殊にデパートメント、ストーアの魁を為せるのみならず、其親しく欧米を巡視したる所に基きて、尚ほ益々規模の拡張を図り、着々時好に先ちて衆目を驚倒せんとす。故に啻に斯業界の模範と為るに止まらず、延いて各種営業者の新知識と為りつつあり。他方に於ては日本美術を海外に紹介し、今や日本の三越と称すれども、更に世界の三越を以て自ら任ずるものゝ如し。
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