事業名:秀英舎
株式会社秀英舎本舎
中央区
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[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
(京橋区西紺屋町)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.298 株式会社秀英舎
画像名:株式会社秀英舎本舎
文献に記載されている解説文等:
本舎 東京市京橋区西紺屋町
第一工場 同市牛込区市ヶ谷加賀町
 活字印刷の鮮麗と技工の熟達とを以て世に知られたる同舎は明治九年十月佐久間貞一、宏仏海、保田久成及び大内青巒の四氏を合資者となし、資本金一千円を以て、今の本舎所在地に、活字若干と手引印刷機械三台とを備へて創立せるに始まれり。当時未だ活版印刷の需用多からず、僅に開知新聞、明教新誌等の二三種に過ぎざりしが、爾後我邦文運の開発と共に其需用を増加し、業務の拡張を来し、従つて規模の発展、設備の革新を為すの必要に迫り、同十四年鋳造部を山下町に新設して製文堂と名け、後之を京橋区元数寄屋町二丁目に移転し、活字、字母、電気版等の製造を主とし、十八年更に同部内に石版部を設けて泰錦堂と称し、同十九年第一工場を牛込区市ヶ谷加賀町一丁目に建築して益々業務の完備を図れり。
 二十一年組織を改めて有限責任秀英舎と称せしが、二十六年株式会社に改め、増資すること前後五回にして、資本総額三十万円に達せり。当初は各種新聞紙の印刷を主とせしものゝ如かりしが、時勢の進運に伴ひ、現今各種印刷の外定期刊行物一百七十余種の多きを算するに至り、為に事務員并に職工を通じて一千二百名を使用す。而して重役は舎長鈴木良輔、取締役相川尚清、同佐久間鋼三郎、監査役宏虎童、同肥塚竜、兼支配人相川尚清、副支配人佐久間司馬介の諸氏なり。
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渋沢ゆかりの地

事業名:秀英舎
株式会社秀英舎本舎
中央区
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[ マップ上の位置情報について ]
(京橋区西紺屋町)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.298 株式会社秀英舎
画像名:
株式会社秀英舎本舎
文献に記載されている解説文等:
本舎 東京市京橋区西紺屋町
第一工場 同市牛込区市ヶ谷加賀町
 活字印刷の鮮麗と技工の熟達とを以て世に知られたる同舎は明治九年十月佐久間貞一、宏仏海、保田久成及び大内青巒の四氏を合資者となし、資本金一千円を以て、今の本舎所在地に、活字若干と手引印刷機械三台とを備へて創立せるに始まれり。当時未だ活版印刷の需用多からず、僅に開知新聞、明教新誌等の二三種に過ぎざりしが、爾後我邦文運の開発と共に其需用を増加し、業務の拡張を来し、従つて規模の発展、設備の革新を為すの必要に迫り、同十四年鋳造部を山下町に新設して製文堂と名け、後之を京橋区元数寄屋町二丁目に移転し、活字、字母、電気版等の製造を主とし、十八年更に同部内に石版部を設けて泰錦堂と称し、同十九年第一工場を牛込区市ヶ谷加賀町一丁目に建築して益々業務の完備を図れり。
 二十一年組織を改めて有限責任秀英舎と称せしが、二十六年株式会社に改め、増資すること前後五回にして、資本総額三十万円に達せり。当初は各種新聞紙の印刷を主とせしものゝ如かりしが、時勢の進運に伴ひ、現今各種印刷の外定期刊行物一百七十余種の多きを算するに至り、為に事務員并に職工を通じて一千二百名を使用す。而して重役は舎長鈴木良輔、取締役相川尚清、同佐久間鋼三郎、監査役宏虎童、同肥塚竜、兼支配人相川尚清、副支配人佐久間司馬介の諸氏なり。
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