事業名:日本郵船株式会社
日本郵船株式会社
千代田区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の日本郵船(麹町区有楽町1丁目1番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.30 日本郵船
画像名:日本郵船株式会社
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市麹町区有楽町一丁目一番地
一 目的事業 近海及遠洋の航海を営み交通及通商の機関たるにあり
一 創立年月日 明治十八年十月一日
一 資本金 弐千弐百万円
一 積立金 弐千弐百五拾参万弐千八百円
一 壱箇年貨物及船客運賃 千八百九拾九万四千六百六拾円
一 壱箇年利益金 参百拾四万四千百四円
一 配当率 年壱割
一 支店所在地 横浜 神戸 門司 長崎 函館 小樽 天津 上海 香港 孟買 倫敦
一 沿革
当社は明治十八年九月政府の命令に依り、共同運輸会社及郵便汽船三菱会社を合併して創立したるものにして、当初は両社の資産壱千壱百万円を以て其資本金とし、所有船舶六万八千余噸を以て沿岸及上海浦潮牛荘天津等東洋近海の航海を営むに過きさりしが、明治二十六年十一月孟買航路を開始し、更に二十九年六月欧洲米国及濠洲の三大航路を開き、益々その事業を拡張し以て今日に至れり、其間日清及日露の戦役に際し、所有船舶を挙けて国家の用に供したるは世の知る所なり、当社現在の資本金積立金は四千万円余にして、其所有航海汽船は弐拾八万九千余噸を数へ、一箇年の航海里数約三百四十万余里に上り、航海業者として世界有数の大会社たりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の前半身たる共同運輸会社に深き関係あり、当社の創立に付きても尽力せられしが、明治二十六年十二月商法の実施に伴ひ当社の組織を変更し、従来官選に依りし重役を株主の選挙に改めたる際、推されて取締役となり、爾来引き続き其任に在りしも、昨四十二年古希の齢に躋りたるを機とし之を辞せられたり、
一 現任役員
   専務取締役社長 近藤廉平  専務取締役副社長 加藤正義
   専務取締役 岩永省一  取締役 園田孝吉
   取締役 浅田正文  取締役 荘田平五郎
   取締役 小川〓[金+冉:ぜん]吉  監査役 有島武
   監査役 飯田巽
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渋沢ゆかりの地

事業名:日本郵船株式会社
日本郵船株式会社
千代田区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の日本郵船(麹町区有楽町1丁目1番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.30 日本郵船
画像名:
日本郵船株式会社
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市麹町区有楽町一丁目一番地
一 目的事業 近海及遠洋の航海を営み交通及通商の機関たるにあり
一 創立年月日 明治十八年十月一日
一 資本金 弐千弐百万円
一 積立金 弐千弐百五拾参万弐千八百円
一 壱箇年貨物及船客運賃 千八百九拾九万四千六百六拾円
一 壱箇年利益金 参百拾四万四千百四円
一 配当率 年壱割
一 支店所在地 横浜 神戸 門司 長崎 函館 小樽 天津 上海 香港 孟買 倫敦
一 沿革
当社は明治十八年九月政府の命令に依り、共同運輸会社及郵便汽船三菱会社を合併して創立したるものにして、当初は両社の資産壱千壱百万円を以て其資本金とし、所有船舶六万八千余噸を以て沿岸及上海浦潮牛荘天津等東洋近海の航海を営むに過きさりしが、明治二十六年十一月孟買航路を開始し、更に二十九年六月欧洲米国及濠洲の三大航路を開き、益々その事業を拡張し以て今日に至れり、其間日清及日露の戦役に際し、所有船舶を挙けて国家の用に供したるは世の知る所なり、当社現在の資本金積立金は四千万円余にして、其所有航海汽船は弐拾八万九千余噸を数へ、一箇年の航海里数約三百四十万余里に上り、航海業者として世界有数の大会社たりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の前半身たる共同運輸会社に深き関係あり、当社の創立に付きても尽力せられしが、明治二十六年十二月商法の実施に伴ひ当社の組織を変更し、従来官選に依りし重役を株主の選挙に改めたる際、推されて取締役となり、爾来引き続き其任に在りしも、昨四十二年古希の齢に躋りたるを機とし之を辞せられたり、
一 現任役員
   専務取締役社長 近藤廉平  専務取締役副社長 加藤正義
   専務取締役 岩永省一  取締役 園田孝吉
   取締役 浅田正文  取締役 荘田平五郎
   取締役 小川〓[金+冉:ぜん]吉  監査役 有島武
   監査役 飯田巽
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