出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.129 東京銀行集会所
画像名:東京銀行集会所及銀行倶楽部
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区阪本町四十番地
一 目的事業 東京市所在の銀行業者相会して其交誼を厚ふし経済上の利害を講究するを目的とす
一 創立年月日 明治十三年九月一日
一 沿革
明治九年国立銀行条例の改正後、銀行の設立漸く増加し、翌十年に至りては全国を通して其数二十に上り、東京に於ける国立及私立銀行の本店及支店凡そ十一に及へり、是に於て青淵先生は銀行業者会合の必要を主唱し、東京府下同業者多数の同意を得て、同年七月二日始めて同業者の会合を第一国立銀行に開き、一会を組織して択善会と称す、之れ実に現今東京銀行集会所の濫觴にして、又我国銀行家会合の嚆矢なり、当時此会に加はりし銀行は其数十一にして、第一国立銀行第十五国立銀行及三井銀行推されて幹事となり、会務は第一国立銀行に於て之を処理し、毎月一回会合を開けり、爾来国立銀行の設立愈増加すると共に本会に加はれる銀行亦愈々増加して其数遂に三十に上れり、明治十三年八月択善会会合に於て組織変更基金出資其他の件を決議し、第三、第六、第二十、第三十三及第百の各国立銀行を挙けて委員とし、同年九月一日其創立を告け、名けて東京銀行集会所と称す、明治十八年六月現今の会堂を新築して之れに移転す、此年十二月始めて銀行通信録を発行す、蓋し之に先て択善会に於て択善会録事の発行あり、明治十一年理財新報と改称して毎月一回之を発行し同十二年之を廃刊せし以来、雑誌の発行久しく中絶せしが、茲に至りて再ひ之を発行せるものにして、爾来月刊以て今日に至る、二十九年三月規程を改正して会長一名、副会長一名を置き、会務の統理に任す、三十一年経済文庫を設置し、三十二年銀行倶楽部を開設す、翌三十三年七月更に規程を改め、従来毎月一回開会の定式集会を廃して、定時総会は一年両度とし、且つ副会長一名を増加す、現今組合銀行は其数五十五行にして、会員の数約百五十名に達せりと云ふ、
一 当所と青淵先生との関係
先生は択善会設立時代より現在に至る迄三十有三年、常に委員長又は会長の位置にありて会務統理の任に当られ以て今日に及へり、
一 現任役員
会長 株式会社第一銀行頭取男爵 渋沢栄一
副会長 三菱合資会社銀行部長 豊川良平
副会長 株式会社十五銀行頭取 園田孝吉
一 所在地 東京市日本橋区阪本町四十番地
一 目的事業 東京市所在の銀行業者相会して其交誼を厚ふし経済上の利害を講究するを目的とす
一 創立年月日 明治十三年九月一日
一 沿革
明治九年国立銀行条例の改正後、銀行の設立漸く増加し、翌十年に至りては全国を通して其数二十に上り、東京に於ける国立及私立銀行の本店及支店凡そ十一に及へり、是に於て青淵先生は銀行業者会合の必要を主唱し、東京府下同業者多数の同意を得て、同年七月二日始めて同業者の会合を第一国立銀行に開き、一会を組織して択善会と称す、之れ実に現今東京銀行集会所の濫觴にして、又我国銀行家会合の嚆矢なり、当時此会に加はりし銀行は其数十一にして、第一国立銀行第十五国立銀行及三井銀行推されて幹事となり、会務は第一国立銀行に於て之を処理し、毎月一回会合を開けり、爾来国立銀行の設立愈増加すると共に本会に加はれる銀行亦愈々増加して其数遂に三十に上れり、明治十三年八月択善会会合に於て組織変更基金出資其他の件を決議し、第三、第六、第二十、第三十三及第百の各国立銀行を挙けて委員とし、同年九月一日其創立を告け、名けて東京銀行集会所と称す、明治十八年六月現今の会堂を新築して之れに移転す、此年十二月始めて銀行通信録を発行す、蓋し之に先て択善会に於て択善会録事の発行あり、明治十一年理財新報と改称して毎月一回之を発行し同十二年之を廃刊せし以来、雑誌の発行久しく中絶せしが、茲に至りて再ひ之を発行せるものにして、爾来月刊以て今日に至る、二十九年三月規程を改正して会長一名、副会長一名を置き、会務の統理に任す、三十一年経済文庫を設置し、三十二年銀行倶楽部を開設す、翌三十三年七月更に規程を改め、従来毎月一回開会の定式集会を廃して、定時総会は一年両度とし、且つ副会長一名を増加す、現今組合銀行は其数五十五行にして、会員の数約百五十名に達せりと云ふ、
一 当所と青淵先生との関係
先生は択善会設立時代より現在に至る迄三十有三年、常に委員長又は会長の位置にありて会務統理の任に当られ以て今日に及へり、
一 現任役員
会長 株式会社第一銀行頭取男爵 渋沢栄一
副会長 三菱合資会社銀行部長 豊川良平
副会長 株式会社十五銀行頭取 園田孝吉