事業名:日本興業銀行
日本興業銀行
千代田区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の日本興業銀行(麹町区銭瓶町)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.103 株式会社日本興業銀行
画像名:日本興業銀行
文献に記載されている解説文等:
東京市麹町区銭瓶町一番地
 日本興業銀行は我邦四大特別銀行の一にして、主として工業資金の融通及び株券、債券其他有価証券の取引并に内外資金共通の一機関として設立せられたるものなり。去る明治二十三年経済界不穏の時に於て盛んに其創設の必要を唱道せられ、当時政府に於ては止むを得ず変通一時の策として、日本銀行をして見返品制度なる名称の下に、各銀行会社又は個人の株券、抵当、約束手形の割引を為さしめ、株式の暴落、工業の衰頽等を救済せしが、是れ所謂一時的の救済策にして、永く是等の処置に安んずべきにあらず。当時の事情は更に進んで動産抵当専門の一大銀行設立を促したり。爾来日清戦後に於て事業の勃興し来るに会し、世は益々動産銀行設立の必要を感ずるに至り、政府も鋭意其法案の成立に力めしを以て、遂に三十二年第十四議会に之を提出するに至り、議会は大に之を歓迎し、名称を日本興業銀行と修正して両院を通過したり。是に於て政府は明治三十三年三月之を公布し、一方には同月直ちに設立委員を任命して、其準備に着手せしが、翌三十四年十二月に至りて、遂に定欵及び株主募集の方法等を議了し、同月設立委員事務所を大蔵省構内に開設し、委員長添田寿一、幹事斎藤恂の両氏は日夜其事務に鞅掌せり。
 当時の金融状況は株主募集の時節に適せざるやの説ありしが、経済界は是が設立の一日も速かならんことを切望せしが故に、諸事好況を以て進行し、其結果優に募集金高の数倍の応募額を観るに至れり。因りて三十五年三月二十七日東京銀行集会所に於て創立総会を開き、設立費用、総裁、理事及び監査役の報酬等を議了し、次いで理事候補者及び監査役の選挙を行ひ、即日添田寿一氏総裁に、伴野乙弥、井上辰九郎、金子直、斎藤恂の四氏理事に任命せられ、又監査役に渋沢栄一、安田善次郎(氏は幾もなくして之を辞し、後任として大谷嘉兵衛氏当選せり)大倉喜八郎の諸氏当選し、茲に銀行組織の完成を告げたるを以て、同年四月十一日より開業せり。而して同年六月の比より本行本分の一たる外資輸入の目的を以て公債の転売を図り、香上銀行と其売買を交渉したる後、同九月政府に五分利付公債五千万円の引受を禀請して其認可を受くるや、香上銀行は直ちに倫敦に於て之を売り出し、非常の好況を以て迎へられ、翌三十六年二月其取引を完了したり。其後日露の開戦を見るに至り、民間の事業頗る沈衰の状況に陥りしが、毎に連戦連勝の快報を伝へければ、社会は戦後に於ける事業勃興、経済膨脹の必然に来るべきを予想し、営業範囲拡張の必要を其筋に禀請し、遂に三十八年三月日本興業銀行の改正を見るに至れり。葢し其要たる一、従来の信託業務の制限を撤去して単に信託の業務とし、二、新に担保付手形の割引を開始し、三、法律の規定に由る財団を抵当とする貸付、即ち鉄道抵当法、礦業及び工場抵当法に由りて設定したる各財団等を抵当としての貸付、四、本法営業範囲外と雖、外国に於て営む銀行業務及び其附帯業務は如何なる種類を問はず、主務大臣の認可を得て自由に之を営むを得ることゝなし、五、払込資本金五倍の債券発行力を拡張して十倍に改め、尚ほ外国に於ける公益事業の資金に対する債券の募集は無制限に発行するを得る等の数件なりき。以上の改正に由りて稍々業務の範囲を拡張せしが、同年八月日露の大戦は連戦連勝を以て局を結ぶに至り、我経済界は予想に違はず著しく新事業の勃興と旧事業の拡張とを促し、資金の需要は頻々として起り、内外資本共通の必要は一層強きを加へたり。是に於て同銀行は信託事業に向つて大に力を注ぎ、北海道炭礦鉄道会社々債一百万磅の信託を受けたり。然れども当時の日本興業銀行法にては、既に改正を加へられたりとはいへ、其需要資金を外国に求むる上に於て未だ充分なりといふべからず。因つて彼我の利害相一致せしむるを以て第一の手段として、外国資本家をして株主たらしめんを図り、資本増加の件を政府に禀申せしが、政府亦此意を諒とし、更に議会の協賛を経、三十九年二月第二次改正に由りて資本金一千万円は一躍して一千七百五十万円となり、其増資額即ち七百五十万円は英国倫敦第一流のブローカーたるパンミユア、ゴルドン商会と締結して無記名式株券を発行し全部英米仏独に於ける有力なる資本家の引受くる所となり、是に於て同行の名声海外に揚り、益益隆盛の域に進めり。此時に際し一方韓国に対して金融機関の完備を要するに至りたれば、本銀行も同年四月京城に事務所を置きて其状況を視察し、後出張店を開き、次いで支店を設置せり。而して同年七月又東京市公債一百五十万磅を引受け、之を倫敦に発行して好成績を得たり。次いで南満洲鉄道株式会社社債引受の交渉を受けたるを以て、総裁添田寿一氏は四十年四月米国を経て渡欧の途に就き、同五月倫敦に着するや、直ちに同地の資本家に交渉し、七月に至りて満鉄社債四千万円を発行したり。帰途仏墺独露等を経て各資本家と相会し、将来の聯絡を図る等充分の効果を収めて、同年九月無事帰朝せり。
 尚ほ同銀行が開業以来外国に向つて放資せる金額は韓国官民に約五百万円、清国官民に約一千万円の巨額に上れり。又内地に於ける金融に関しては既に前後十一回、一千七百三十五万円の興業債券を発行し、貸付、割引、社債引受の方法に由りて各種の事業に放資し、又各地方債三百万余円を引受け、次ぎに信託事業として取扱ひたる内地発行の社債総額は約七百万円に達す。尚ほ第十二期末即ち最近の諸放資高は四千三百七十万余円にして、第一期末の放資高二百六万余円に比せば、実に四千一百六十三万余円の増加を示せるなり。是の如く日本興業銀行は大に発展して充分其力を尽し、尚ほ将来に向つて益々各種事業に尽瘁せんとす。我経済界に於ける工業資金の融通、株券、債券其他有価取引等に関しては、向後益々日本興業銀行を信頼せざるべからざるもの甚だ多し。
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渋沢ゆかりの地

事業名:日本興業銀行
日本興業銀行
千代田区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の日本興業銀行(麹町区銭瓶町)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
副島八十六編 『開国五十年史附録』(開国五十年史発行所,1908)p.103 株式会社日本興業銀行
画像名:
日本興業銀行
文献に記載されている解説文等:
東京市麹町区銭瓶町一番地
 日本興業銀行は我邦四大特別銀行の一にして、主として工業資金の融通及び株券、債券其他有価証券の取引并に内外資金共通の一機関として設立せられたるものなり。去る明治二十三年経済界不穏の時に於て盛んに其創設の必要を唱道せられ、当時政府に於ては止むを得ず変通一時の策として、日本銀行をして見返品制度なる名称の下に、各銀行会社又は個人の株券、抵当、約束手形の割引を為さしめ、株式の暴落、工業の衰頽等を救済せしが、是れ所謂一時的の救済策にして、永く是等の処置に安んずべきにあらず。当時の事情は更に進んで動産抵当専門の一大銀行設立を促したり。爾来日清戦後に於て事業の勃興し来るに会し、世は益々動産銀行設立の必要を感ずるに至り、政府も鋭意其法案の成立に力めしを以て、遂に三十二年第十四議会に之を提出するに至り、議会は大に之を歓迎し、名称を日本興業銀行と修正して両院を通過したり。是に於て政府は明治三十三年三月之を公布し、一方には同月直ちに設立委員を任命して、其準備に着手せしが、翌三十四年十二月に至りて、遂に定欵及び株主募集の方法等を議了し、同月設立委員事務所を大蔵省構内に開設し、委員長添田寿一、幹事斎藤恂の両氏は日夜其事務に鞅掌せり。
 当時の金融状況は株主募集の時節に適せざるやの説ありしが、経済界は是が設立の一日も速かならんことを切望せしが故に、諸事好況を以て進行し、其結果優に募集金高の数倍の応募額を観るに至れり。因りて三十五年三月二十七日東京銀行集会所に於て創立総会を開き、設立費用、総裁、理事及び監査役の報酬等を議了し、次いで理事候補者及び監査役の選挙を行ひ、即日添田寿一氏総裁に、伴野乙弥、井上辰九郎、金子直、斎藤恂の四氏理事に任命せられ、又監査役に渋沢栄一、安田善次郎(氏は幾もなくして之を辞し、後任として大谷嘉兵衛氏当選せり)大倉喜八郎の諸氏当選し、茲に銀行組織の完成を告げたるを以て、同年四月十一日より開業せり。而して同年六月の比より本行本分の一たる外資輸入の目的を以て公債の転売を図り、香上銀行と其売買を交渉したる後、同九月政府に五分利付公債五千万円の引受を禀請して其認可を受くるや、香上銀行は直ちに倫敦に於て之を売り出し、非常の好況を以て迎へられ、翌三十六年二月其取引を完了したり。其後日露の開戦を見るに至り、民間の事業頗る沈衰の状況に陥りしが、毎に連戦連勝の快報を伝へければ、社会は戦後に於ける事業勃興、経済膨脹の必然に来るべきを予想し、営業範囲拡張の必要を其筋に禀請し、遂に三十八年三月日本興業銀行の改正を見るに至れり。葢し其要たる一、従来の信託業務の制限を撤去して単に信託の業務とし、二、新に担保付手形の割引を開始し、三、法律の規定に由る財団を抵当とする貸付、即ち鉄道抵当法、礦業及び工場抵当法に由りて設定したる各財団等を抵当としての貸付、四、本法営業範囲外と雖、外国に於て営む銀行業務及び其附帯業務は如何なる種類を問はず、主務大臣の認可を得て自由に之を営むを得ることゝなし、五、払込資本金五倍の債券発行力を拡張して十倍に改め、尚ほ外国に於ける公益事業の資金に対する債券の募集は無制限に発行するを得る等の数件なりき。以上の改正に由りて稍々業務の範囲を拡張せしが、同年八月日露の大戦は連戦連勝を以て局を結ぶに至り、我経済界は予想に違はず著しく新事業の勃興と旧事業の拡張とを促し、資金の需要は頻々として起り、内外資本共通の必要は一層強きを加へたり。是に於て同銀行は信託事業に向つて大に力を注ぎ、北海道炭礦鉄道会社々債一百万磅の信託を受けたり。然れども当時の日本興業銀行法にては、既に改正を加へられたりとはいへ、其需要資金を外国に求むる上に於て未だ充分なりといふべからず。因つて彼我の利害相一致せしむるを以て第一の手段として、外国資本家をして株主たらしめんを図り、資本増加の件を政府に禀申せしが、政府亦此意を諒とし、更に議会の協賛を経、三十九年二月第二次改正に由りて資本金一千万円は一躍して一千七百五十万円となり、其増資額即ち七百五十万円は英国倫敦第一流のブローカーたるパンミユア、ゴルドン商会と締結して無記名式株券を発行し全部英米仏独に於ける有力なる資本家の引受くる所となり、是に於て同行の名声海外に揚り、益益隆盛の域に進めり。此時に際し一方韓国に対して金融機関の完備を要するに至りたれば、本銀行も同年四月京城に事務所を置きて其状況を視察し、後出張店を開き、次いで支店を設置せり。而して同年七月又東京市公債一百五十万磅を引受け、之を倫敦に発行して好成績を得たり。次いで南満洲鉄道株式会社社債引受の交渉を受けたるを以て、総裁添田寿一氏は四十年四月米国を経て渡欧の途に就き、同五月倫敦に着するや、直ちに同地の資本家に交渉し、七月に至りて満鉄社債四千万円を発行したり。帰途仏墺独露等を経て各資本家と相会し、将来の聯絡を図る等充分の効果を収めて、同年九月無事帰朝せり。
 尚ほ同銀行が開業以来外国に向つて放資せる金額は韓国官民に約五百万円、清国官民に約一千万円の巨額に上れり。又内地に於ける金融に関しては既に前後十一回、一千七百三十五万円の興業債券を発行し、貸付、割引、社債引受の方法に由りて各種の事業に放資し、又各地方債三百万余円を引受け、次ぎに信託事業として取扱ひたる内地発行の社債総額は約七百万円に達す。尚ほ第十二期末即ち最近の諸放資高は四千三百七十万余円にして、第一期末の放資高二百六万余円に比せば、実に四千一百六十三万余円の増加を示せるなり。是の如く日本興業銀行は大に発展して充分其力を尽し、尚ほ将来に向つて益々各種事業に尽瘁せんとす。我経済界に於ける工業資金の融通、株券、債券其他有価取引等に関しては、向後益々日本興業銀行を信頼せざるべからざるもの甚だ多し。
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