晩香墓(血洗島渋沢一族墓地)
深谷市
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[撮影日] 不詳 
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは渋沢栄一生地を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.52 
画像名:晩香墓(血洗島渋沢一族墓地)
文献に記載されている解説文等:
[P.052] … 父市郎右衛門(晩香)は明治四年十一月二十二日に歿した。市郎右衛門は同族宗助の三男に生れ、「中の家」に入って、衰微していた家を興した人であった。栄一は国事に奔走して家を出たが、「中の家」は栄一が継ぐべきものとしていて、妹貞子に養子を迎えて家業を継ぐ事を認めたのは死の直前であった。貞子は須永才三郎(後の市郎)を迎えて家を継ぐことになるが、その披露は市郎右衛門歿後になされた。翌五年栄一は市郎右衛門の招魂碑を谷中墓地に建立した。展墓の為屡々帰省し得ないためである。
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渋沢ゆかりの地

晩香墓(血洗島渋沢一族墓地)
深谷市
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ピンは渋沢栄一生地を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.52 
画像名:
晩香墓(血洗島渋沢一族墓地)
文献に記載されている解説文等:
[P.052] … 父市郎右衛門(晩香)は明治四年十一月二十二日に歿した。市郎右衛門は同族宗助の三男に生れ、「中の家」に入って、衰微していた家を興した人であった。栄一は国事に奔走して家を出たが、「中の家」は栄一が継ぐべきものとしていて、妹貞子に養子を迎えて家業を継ぐ事を認めたのは死の直前であった。貞子は須永才三郎(後の市郎)を迎えて家を継ぐことになるが、その披露は市郎右衛門歿後になされた。翌五年栄一は市郎右衛門の招魂碑を谷中墓地に建立した。展墓の為屡々帰省し得ないためである。
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