事業名:日本煉瓦製造株式会社
日本煉瓦製造株式会社工場
深谷市
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[撮影日] 不詳 
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは煉瓦資料室を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.43 日本煉瓦製造株式会社
画像名:日本煉瓦製造株式会社工場
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区三代町六番地
一 目的事業 赤煉瓦の製造販売
一 創立年月 明治二十年十月
一 資本金 参拾万円(全額払込済)
一 積立金 拾壱万五千八百円
一 壱箇年製造高 参千五百万本
一 壱箇年利益金 五万弐千五百七拾円余
一 配当率 年壱割六分
一 工場所在地 埼玉県大里郡大寄村大字上敷免
一 沿革
当会社は本邦機械製煉瓦業の鼻祖なり、明治十八九年の交、我邦をして欧米文明国に対峙せしめんには諸官衙議事堂其他の建築を完美ならしめさる可らすとの議廟堂の間に起り、先つ其主要材料たる煉瓦供給の一大工場を設くる必要ありとし、当時臨時建築局総裁たりし井上伯の勧誘に因り、明治二十年十月青淵先生、益田孝、池田栄亮等の諸氏、政府の二三特恵条件を基礎として当会社を設立せるものなり、然るに時利あらす、政府の方針一変と共に臨時建築局亦廃せられ、会社創立の目的全く畵餅に帰す、此時に当り、先生斯業の国家将来に必須且有利なるを察知し、社員を督励し拮据忍耐以て会社の維持経営に任すへきことを以てせらる、爾来世運幾変遷、或は経営の方針を誤り、時に財界の沈淪に遭遇し、又屡々洪水の厄を蒙り、幾度か九死の悲境に陥りしが、幸にして天運漸く循環し、明治三十二年六月始めて会社の基礎確立し、今や其規模の大なる、経営の壮なる、斯業に於ける東洋第一と称せらるるに至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の創立以来其主宰者として、多年之が指導経営の任に膺られたりしが、昨四十二年古希の寿に躋りたるを機として其任を辞せられたり、
一 現任役員
専務取締役 諸井恒平  取締役 竹井澹如  取締役 野中真  取締役 神谷十松  監査役 日比谷平左衛門  監査役 益田太郎
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渋沢ゆかりの地

事業名:日本煉瓦製造株式会社
日本煉瓦製造株式会社工場
深谷市
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ピンは煉瓦資料室を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』 (青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.43 日本煉瓦製造株式会社
画像名:
日本煉瓦製造株式会社工場
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市日本橋区三代町六番地
一 目的事業 赤煉瓦の製造販売
一 創立年月 明治二十年十月
一 資本金 参拾万円(全額払込済)
一 積立金 拾壱万五千八百円
一 壱箇年製造高 参千五百万本
一 壱箇年利益金 五万弐千五百七拾円余
一 配当率 年壱割六分
一 工場所在地 埼玉県大里郡大寄村大字上敷免
一 沿革
当会社は本邦機械製煉瓦業の鼻祖なり、明治十八九年の交、我邦をして欧米文明国に対峙せしめんには諸官衙議事堂其他の建築を完美ならしめさる可らすとの議廟堂の間に起り、先つ其主要材料たる煉瓦供給の一大工場を設くる必要ありとし、当時臨時建築局総裁たりし井上伯の勧誘に因り、明治二十年十月青淵先生、益田孝、池田栄亮等の諸氏、政府の二三特恵条件を基礎として当会社を設立せるものなり、然るに時利あらす、政府の方針一変と共に臨時建築局亦廃せられ、会社創立の目的全く畵餅に帰す、此時に当り、先生斯業の国家将来に必須且有利なるを察知し、社員を督励し拮据忍耐以て会社の維持経営に任すへきことを以てせらる、爾来世運幾変遷、或は経営の方針を誤り、時に財界の沈淪に遭遇し、又屡々洪水の厄を蒙り、幾度か九死の悲境に陥りしが、幸にして天運漸く循環し、明治三十二年六月始めて会社の基礎確立し、今や其規模の大なる、経営の壮なる、斯業に於ける東洋第一と称せらるるに至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は当社の創立以来其主宰者として、多年之が指導経営の任に膺られたりしが、昨四十二年古希の寿に躋りたるを機として其任を辞せられたり、
一 現任役員
専務取締役 諸井恒平  取締役 竹井澹如  取締役 野中真  取締役 神谷十松  監査役 日比谷平左衛門  監査役 益田太郎
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