下手計 尾高家
深谷市

[撮影日] 不詳
出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.13
画像名:下手計 尾高家
文献に記載されている解説文等:
[P.013] 栄一、少青年時代の薫育は尾高惇忠から受けた。父、市郎右衛門の姉やへは、下手許の尾高勝五郎に嫁し、惇忠(新五郎)、長七郎(東寧)、ちよ(栄一夫人)、平九郎(栄一の養子となる)等を生んだ。惇忠は栄一より十歳の年長であり、水戸学の影響を強く受けていたので、幕末情勢の激変に際して、文久三年末、その兄弟、及び栄一、喜作等と共に兵を挙げて高崎城を焼き、横浜に攘夷の実行を計った。この計画は結局中止となったため、栄一は喜作と共に故郷を離脱したのである。惇忠は維新後は民部省に出仕し、富岡製糸場長となり、退官後は第一銀行盛岡支店長、仙台支店長を歴任した。晩年は深川の渋沢邸内にあり、明治三十四年一月二日没した。行年七十二歳。…
[P.013] 栄一、少青年時代の薫育は尾高惇忠から受けた。父、市郎右衛門の姉やへは、下手許の尾高勝五郎に嫁し、惇忠(新五郎)、長七郎(東寧)、ちよ(栄一夫人)、平九郎(栄一の養子となる)等を生んだ。惇忠は栄一より十歳の年長であり、水戸学の影響を強く受けていたので、幕末情勢の激変に際して、文久三年末、その兄弟、及び栄一、喜作等と共に兵を挙げて高崎城を焼き、横浜に攘夷の実行を計った。この計画は結局中止となったため、栄一は喜作と共に故郷を離脱したのである。惇忠は維新後は民部省に出仕し、富岡製糸場長となり、退官後は第一銀行盛岡支店長、仙台支店長を歴任した。晩年は深川の渋沢邸内にあり、明治三十四年一月二日没した。行年七十二歳。…
