トピック詳細
「青淵由来之跡」碑除幕式
青淵先生由来之跡碑
『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年-昭和六年 / 3部 身辺 / 14章 記念事業 / 3 青淵先生由来之跡碑 【第57巻 p.863-865】
1937(昭和12)年3月16日(没後6年)
是日、埼玉県大里郡八基村青年団血洗島支部等の発起により、同村に建設せられたる「青淵由来之跡」碑除幕式挙行せらる。
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[ 解説 ]  1937(昭和12)年、渋沢栄一生家近くの淵に、栄一の号「青淵」の由来を記念する記念碑が建設されました。この碑は皇太子明仁親王誕生にちなむ史蹟保存事業として埼玉県大里郡八基村(やつもとむら)青年団により発起・建設され、除幕式が旧暦2月13日(栄一の誕生日)に相当する3月16日に挙行されました。碑の表面には栄一と交流のあった清浦奎吾(きようら・けいご、1850-1942)の揮毫で「青淵由来之跡」の文字が、裏面には渋沢治太郎(栄一の甥)選書による「建碑の記」が刻まれました。
 『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.864-865には、渋沢元治著『弟渋沢治太郎君を語る』(故渋沢治太郎君伝記刊行会, 1952.04)からの転載として碑建立の経緯が紹介されています。また、『渋沢栄一伝記資料』第1巻には、栄一本人が語った号の由来が次のように紹介されています。

「先生 「青渊と云ふ私の号は、私が十八才頃、藍香先生[尾高惇忠]から附けて貰つた。当時私の家の下に渊があつて、その関係から私の家を渊上小屋と名附けてゐた。それから青渊と云ふ号が出来たのである」
元治 「今は渊はありません。出水がある毎に埋もれて行くやうです。唯渊のあとに、清水が僅かばかり湧いてゐますが」
先生 「さうですか。実はあの渊が出来たのも、洪水のためだつた。それが又出水の為めに埋もれて行くなど、変なものだネ。青渊変じて岡となるとでも言ひ度い。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.3収載 『雨夜譚会談話筆記 下』p.742-744(1927.11-1930.07)より)

[ 参考リンク ]

青淵の由来と意味を教えてください。 - 渋沢栄一Q&A〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕

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「青淵由来之跡」碑除幕式
青淵先生由来之跡碑
1937(昭和12)年3月16日(没後6年)
是日、埼玉県大里郡八基村青年団血洗島支部等の発起により、同村に建設せられたる「青淵由来之跡」碑除幕式挙行せらる。
[ 解説 ]
 1937(昭和12)年、渋沢栄一生家近くの淵に、栄一の号「青淵」の由来を記念する記念碑が建設されました。この碑は皇太子明仁親王誕生にちなむ史蹟保存事業として埼玉県大里郡八基村(やつもとむら)青年団により発起・建設され、除幕式が旧暦2月13日(栄一の誕生日)に相当する3月16日に挙行されました。碑の表面には栄一と交流のあった清浦奎吾(きようら・けいご、1850-1942)の揮毫で「青淵由来之跡」の文字が、裏面には渋沢治太郎(栄一の甥)選書による「建碑の記」が刻まれました。
 『渋沢栄一伝記資料』第57巻p.864-865には、渋沢元治著『弟渋沢治太郎君を語る』(故渋沢治太郎君伝記刊行会, 1952.04)からの転載として碑建立の経緯が紹介されています。また、『渋沢栄一伝記資料』第1巻には、栄一本人が語った号の由来が次のように紹介されています。

「先生 「青渊と云ふ私の号は、私が十八才頃、藍香先生[尾高惇忠]から附けて貰つた。当時私の家の下に渊があつて、その関係から私の家を渊上小屋と名附けてゐた。それから青渊と云ふ号が出来たのである」
元治 「今は渊はありません。出水がある毎に埋もれて行くやうです。唯渊のあとに、清水が僅かばかり湧いてゐますが」
先生 「さうですか。実はあの渊が出来たのも、洪水のためだつた。それが又出水の為めに埋もれて行くなど、変なものだネ。青渊変じて岡となるとでも言ひ度い。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.3収載 『雨夜譚会談話筆記 下』p.742-744(1927.11-1930.07)より)

[ 参考リンク ]

青淵の由来と意味を教えてください。 - 渋沢栄一Q&A〔渋沢栄一記念財団 渋沢栄一〕


出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年-昭和六年 / 3部 身辺 / 14章 記念事業 / 3 青淵先生由来之跡碑 【第57巻 p.863-865】