トピック詳細
渋沢篤太夫(栄一)、静岡紺屋町に商法会所を開く 
静岡藩仕官時代
『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 3章 静岡藩仕官時代 【第2巻 p.93-109】
明治2年己巳1月16日[西暦:1869年2月26日](29歳)
是より先、前年十二月静岡藩勘定頭平岡準蔵に商法会所の設立を建議して容れられ、是日静岡紺屋町に商法会所を開く。栄一其頭取たり。
[ 解説 ]  「商法会所」とは、明治2年1月16日[西暦:1869年2月26日]に渋沢篤太夫(渋沢栄一)の提言により静岡に設立された金融商社です。商法会所は同年8月に常平倉設立にともない、廃止となりました。
 『渋沢栄一伝記資料』第2巻には、商法会所設立の経緯について、栄一の回想が次のように紹介されています。

「本編は青淵先生の談として八月一日発行の雑誌『実業の日本』誌上に掲戴せるものなり。(編者識)
[中略] 当時静岡藩では大久保一翁が中老職で、平岡準蔵が勘定頭を勤めて居た。この平岡は去年京都でも数回の面識もあつたし、且つ余に対して大に信用を置いて呉れた。といふのは当時海外に派遣されたものは兎角其計算が粗漏で規律が立なかつた。費用が不足すれば、幾何でも要つただけを請求し、余あれば役得と心得て私し、決して明瞭に計算を示したことがない。誠に困つたことであり、不都合の処為であつたが、幕末のゴタゴタ騒中であるから、罪することも出来ず、海外御用といへば、実に不規律を極めて居つた。然るに余は公子留学中の計算を明瞭に記録し、茶碗茶卓の微に至るまで行衛を明にし、厘毛も誤魔化したことがない。当然のことではあるが、当時に於ては異数とせられ、為に益々信用を得た。
[中略] 其頃新政府から諸藩へ石高拝借といふことが許されてゐた。これは維新に際し金融が著しく窮迫を告げたから、政府は凡そ五千万両の紙幣を製造し、[中略] 諸藩の石高に応じて新紙幣を貸付け、年三分の利子で十三ケ年賦に償却するといふ方法であつた。静岡藩への割付総高は七十万両ほどであつたが、元年末までに新政府から交付せられた金高は五十三万両であると聞いた。余は [中略] この石高拝借に就て、一の新案を起した。
 是に於て余は勘定頭の平岡準蔵を訪ね、[中略] 意中の新案を相談した。『当静岡藩で拝借の紙幣は五十万両以上であると聞くが、若しこの金を迂濶に藩庁の政費などに費消する時は、藩は返済方を如何に処置なさる御見込であるか、[中略] 若し果して郡県政治になるとすれば、当藩などは新に置かれたことであるから、別に余財のあるべき筈はない。[中略] 然らば一旦政事上の破産をした当藩は、再び経済上の破産に陥らねばならぬ訳合であるから、今日之を予防するが必要と思はれる。それにはこの石高拝借の金高をば、総て別途の経済とし、之を基本に興業殖産の事を勉め、其運転中に生ずる利益を以て返納金に充てることにしたら、藩庁の利益はいふまでもなく、地方人民の上に於ても、此上の幸福はあるまい。又静岡は小都会であるが、随分相応の商人もあるから、原資金を貸与して、其商業を一層盛にすることは敢て難事でもなからう。元来商売といふものは、一人一己の力では、之を盛にすることは難い、西洋に行はれる合本法を採用するが最も急務であると思ふ。今この地方でも幾分の合本は出来るに相違ないから、石高拝借を基礎として、之に地方の資本を合同させて、一個の商会を取立て、売買貸借の事を取扱せたならば、地方商況を一変して大に進歩の功を助けるであらう。又今日静岡藩で其端緒を開いたら、自然と各地へ伝播し、日本商業の面目を一新せしむる一端ともならう。
[中略]』と述べた。平岡も至極面白い新案だ、就ては其方法を委しく書面にして差出せといはれ、詳細に方法を認めて計算書までも添へて平岡の手へ差出した。
 藩庁の評議は忽ち決し、静岡の紺屋町といふ所に、相当の家屋があつたのを事務所として商法会所といふ名義で一の商会を設立した。全体の取締は勘定頭の任で、余は頭取といふ名を以て事業運転上の主任となつた。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第2巻p.97-99収載 『竜門雑誌』 第279号 p.37-41〔明治44年8月〕「合本事業経営の実験」(青淵先生)より)

「一、明治維新当時の先生の御気持に就て [前略]
先生 「[中略] 私が仏蘭西に滞在中深く感じた事が一つあつた。それは我国が彼の地に比較して官尊民卑の弊が甚だしい事である。私はせめて実業界に丈けでも此の弊を直して見たい。それには民業の発展が必要である。それは三井や鴻の池と云ふやうな金持はある。けれども今後は金を持つてゐるだけでは何にもならぬ。少くとも民業を進めると云ふ事は一人が金持になると云ふ事ではいかぬ。それには合本組織がよい。勿諭その合本組織を実行するには能力学識が必要な事は言ふまでもないが、これさえ実行出来たら、金の為めに戚張ると云ふ事はなくなるであらう。又これによつて民間の知織が進めば自然官尊民卑の弊はなくなる。何でもお役人の言ふことは御無理御尤と常に頭を下げる必要もなくなることになるのである。こんな考を以て初め静岡藩で合本組職をやつて見た。それがあの商法会所であつた。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第2巻p.96-97掲載 『雨夜譚会談話筆記』 下巻p.794―798 〔昭和2年11月―昭和5年7月〕より)

[ 参考リンク ]

明治2年己巳9月1日[西暦:1869年10月5日](29歳)常平倉を開設 〔情報資源センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」〕

明治2年己巳11月4日[西暦:1869年12月6日](29歳)民部省租税正に任ぜられる 〔情報資源センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」〕

明治4年辛未1月21日[西暦:1871年3月11日](30歳)静岡藩に世禄返上 〔情報資源センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」〕

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静岡
渋沢篤太夫(栄一)、静岡紺屋町に商法会所を開く 
静岡藩仕官時代
明治2年己巳1月16日[西暦:1869年2月26日](29歳)
是より先、前年十二月静岡藩勘定頭平岡準蔵に商法会所の設立を建議して容れられ、是日静岡紺屋町に商法会所を開く。栄一其頭取たり。
[ 解説 ]
 「商法会所」とは、明治2年1月16日[西暦:1869年2月26日]に渋沢篤太夫(渋沢栄一)の提言により静岡に設立された金融商社です。商法会所は同年8月に常平倉設立にともない、廃止となりました。
 『渋沢栄一伝記資料』第2巻には、商法会所設立の経緯について、栄一の回想が次のように紹介されています。

「本編は青淵先生の談として八月一日発行の雑誌『実業の日本』誌上に掲戴せるものなり。(編者識)
[中略] 当時静岡藩では大久保一翁が中老職で、平岡準蔵が勘定頭を勤めて居た。この平岡は去年京都でも数回の面識もあつたし、且つ余に対して大に信用を置いて呉れた。といふのは当時海外に派遣されたものは兎角其計算が粗漏で規律が立なかつた。費用が不足すれば、幾何でも要つただけを請求し、余あれば役得と心得て私し、決して明瞭に計算を示したことがない。誠に困つたことであり、不都合の処為であつたが、幕末のゴタゴタ騒中であるから、罪することも出来ず、海外御用といへば、実に不規律を極めて居つた。然るに余は公子留学中の計算を明瞭に記録し、茶碗茶卓の微に至るまで行衛を明にし、厘毛も誤魔化したことがない。当然のことではあるが、当時に於ては異数とせられ、為に益々信用を得た。
[中略] 其頃新政府から諸藩へ石高拝借といふことが許されてゐた。これは維新に際し金融が著しく窮迫を告げたから、政府は凡そ五千万両の紙幣を製造し、[中略] 諸藩の石高に応じて新紙幣を貸付け、年三分の利子で十三ケ年賦に償却するといふ方法であつた。静岡藩への割付総高は七十万両ほどであつたが、元年末までに新政府から交付せられた金高は五十三万両であると聞いた。余は [中略] この石高拝借に就て、一の新案を起した。
 是に於て余は勘定頭の平岡準蔵を訪ね、[中略] 意中の新案を相談した。『当静岡藩で拝借の紙幣は五十万両以上であると聞くが、若しこの金を迂濶に藩庁の政費などに費消する時は、藩は返済方を如何に処置なさる御見込であるか、[中略] 若し果して郡県政治になるとすれば、当藩などは新に置かれたことであるから、別に余財のあるべき筈はない。[中略] 然らば一旦政事上の破産をした当藩は、再び経済上の破産に陥らねばならぬ訳合であるから、今日之を予防するが必要と思はれる。それにはこの石高拝借の金高をば、総て別途の経済とし、之を基本に興業殖産の事を勉め、其運転中に生ずる利益を以て返納金に充てることにしたら、藩庁の利益はいふまでもなく、地方人民の上に於ても、此上の幸福はあるまい。又静岡は小都会であるが、随分相応の商人もあるから、原資金を貸与して、其商業を一層盛にすることは敢て難事でもなからう。元来商売といふものは、一人一己の力では、之を盛にすることは難い、西洋に行はれる合本法を採用するが最も急務であると思ふ。今この地方でも幾分の合本は出来るに相違ないから、石高拝借を基礎として、之に地方の資本を合同させて、一個の商会を取立て、売買貸借の事を取扱せたならば、地方商況を一変して大に進歩の功を助けるであらう。又今日静岡藩で其端緒を開いたら、自然と各地へ伝播し、日本商業の面目を一新せしむる一端ともならう。
[中略]』と述べた。平岡も至極面白い新案だ、就ては其方法を委しく書面にして差出せといはれ、詳細に方法を認めて計算書までも添へて平岡の手へ差出した。
 藩庁の評議は忽ち決し、静岡の紺屋町といふ所に、相当の家屋があつたのを事務所として商法会所といふ名義で一の商会を設立した。全体の取締は勘定頭の任で、余は頭取といふ名を以て事業運転上の主任となつた。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第2巻p.97-99収載 『竜門雑誌』 第279号 p.37-41〔明治44年8月〕「合本事業経営の実験」(青淵先生)より)

「一、明治維新当時の先生の御気持に就て [前略]
先生 「[中略] 私が仏蘭西に滞在中深く感じた事が一つあつた。それは我国が彼の地に比較して官尊民卑の弊が甚だしい事である。私はせめて実業界に丈けでも此の弊を直して見たい。それには民業の発展が必要である。それは三井や鴻の池と云ふやうな金持はある。けれども今後は金を持つてゐるだけでは何にもならぬ。少くとも民業を進めると云ふ事は一人が金持になると云ふ事ではいかぬ。それには合本組織がよい。勿諭その合本組織を実行するには能力学識が必要な事は言ふまでもないが、これさえ実行出来たら、金の為めに戚張ると云ふ事はなくなるであらう。又これによつて民間の知織が進めば自然官尊民卑の弊はなくなる。何でもお役人の言ふことは御無理御尤と常に頭を下げる必要もなくなることになるのである。こんな考を以て初め静岡藩で合本組職をやつて見た。それがあの商法会所であつた。[後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第2巻p.96-97掲載 『雨夜譚会談話筆記』 下巻p.794―798 〔昭和2年11月―昭和5年7月〕より)

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明治2年己巳9月1日[西暦:1869年10月5日](29歳)常平倉を開設 〔情報資源センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」〕

明治2年己巳11月4日[西暦:1869年12月6日](29歳)民部省租税正に任ぜられる 〔情報資源センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」〕

明治4年辛未1月21日[西暦:1871年3月11日](30歳)静岡藩に世禄返上 〔情報資源センター・ブログ 「情報の扉の、そのまた向こう」〕


出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 3章 静岡藩仕官時代 【第2巻 p.93-109】