[ 解説 ]
1866(慶応2)年、一橋慶喜(徳川慶喜)に仕えていた渋沢栄一は長州出征への従軍を命じられました。しかしながら7月に将軍家茂が薨去したこともあり、長州への出征は急遽中止となりました。
『渋沢栄一伝記資料』第1巻には、47歳の栄一が当時を回顧して語った心境が次のように記されています。
「[前略] 此の時に自分も長州征伐の御供を命ぜられて、勘定組頭から御使番格に栄転した、前にも述べた通り、自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは、一図に一橋家の会計整理に力を尽して、種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公御出馬といふ場合になつては、腰抜け武士となつて人後に落ることは好まぬ気質だから、強て従軍を願つて、御馬前で一命を棄る覚悟でありました、○下略」
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.413収載 『雨夜譚』(渋沢栄一述) 巻之三・第8―10丁〔明治20年〕より)
また同書p.425-426には、出征を前に栄一が千代子夫人に送った書簡も転載されています。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 2部 亡命及ビ仕官時代 / 1章 亡命及ビ一橋家仕官時代 【第1巻 p.412-427】