トピック詳細
挙兵計画を断念 
青年志士時代
『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 1部 在郷時代 / 2章 青年志士時代 【第1巻 p.259-268】
文久3年癸亥10月29日[西暦:1863年12月9日](23歳)
是より先是月二十五・六日頃尾高長七郎京都より帰京す。是夜長七郎上国の形勢を説きて、挙兵の無謀なる所以を切論す。栄一等論難大いに努めたるも、遂に開悟し、中止に決す。
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[ 解説 ]  1863(文久3癸亥)年、尊王攘夷の思想から渋沢栄一は高崎城の乗っ取り、横浜焼き討ちを企てたことがありました。その企てを断念するよう栄一を説得したのは尾高長七郎(おだか・ちょうしちろう、1838-1868)でした。尾高長七郎は、栄一とは年齢も近く「竹馬の友として特に親交を重ね、互に文武を研鑚した」(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.74)従兄です。
 『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.259-268には、栄一による当時の回想が紹介されています。

「○上略 十七八才位の頃から、一つの考を有つて居りました。それは当時存在した甚だしい階級的差別がよろしくない。之は是非廃せねばならぬ。それには封建制度を打破し、日本の国風を改革しなければならない。これが国民の一員としての為さねばならぬ義務であると云ふのでありました。これは私が日本外史などに刺戟せられた為めでありませう。その為めにさうした考へを持つことがよくないと、親から叱られたり訓戒をせられたりして、一度は思ひ止つたが、其後四五年の間家業を手伝ひながら勉強して居る内、対外関係が急迫し、遂に晏如たるを得ず、封建制度の改革もさることながら、今外国の侵略を受けることは、国民として座視するに忍びないとし、此処に外敵を打ち払はうと云う自惚心を起し、暴挙の計劃をするに至りましたが、事を挙ぐるに及ばずして止めました。○下略
   ○右ハ『米寿を迎へて』ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。」
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.267-268収載 『竜門雑誌』第461号p.2〔昭和2年2月〕より)

「○上略 十月の廿五六日頃になつて、尾高長七郎が京都から帰つて来た、ソコデ是迄の成行きを詳細に話して、向後事を挙る手続の事も相談して、旁京都の形勢を尋ねて見た所が、長七郎の考へは、丸で反対で、種々に異論があつた、今日から見ると、其時長七郎の意見が適当であつて、自分等の決心は頗る無謀であつた、実に長七郎が自分等大勢の命を救つて呉れたといつてもよい [後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.259収載 『雨夜譚』(渋沢栄一述)巻之一 p.28~32〔明治20年〕より)

渋沢ゆかりの地

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挙兵計画を断念 
青年志士時代
文久3年癸亥10月29日[西暦:1863年12月9日](23歳)
是より先是月二十五・六日頃尾高長七郎京都より帰京す。是夜長七郎上国の形勢を説きて、挙兵の無謀なる所以を切論す。栄一等論難大いに努めたるも、遂に開悟し、中止に決す。
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[ 解説 ]
 1863(文久3癸亥)年、尊王攘夷の思想から渋沢栄一は高崎城の乗っ取り、横浜焼き討ちを企てたことがありました。その企てを断念するよう栄一を説得したのは尾高長七郎(おだか・ちょうしちろう、1838-1868)でした。尾高長七郎は、栄一とは年齢も近く「竹馬の友として特に親交を重ね、互に文武を研鑚した」(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.74)従兄です。
 『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.259-268には、栄一による当時の回想が紹介されています。

「○上略 十七八才位の頃から、一つの考を有つて居りました。それは当時存在した甚だしい階級的差別がよろしくない。之は是非廃せねばならぬ。それには封建制度を打破し、日本の国風を改革しなければならない。これが国民の一員としての為さねばならぬ義務であると云ふのでありました。これは私が日本外史などに刺戟せられた為めでありませう。その為めにさうした考へを持つことがよくないと、親から叱られたり訓戒をせられたりして、一度は思ひ止つたが、其後四五年の間家業を手伝ひながら勉強して居る内、対外関係が急迫し、遂に晏如たるを得ず、封建制度の改革もさることながら、今外国の侵略を受けることは、国民として座視するに忍びないとし、此処に外敵を打ち払はうと云う自惚心を起し、暴挙の計劃をするに至りましたが、事を挙ぐるに及ばずして止めました。○下略
   ○右ハ『米寿を迎へて』ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。」
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.267-268収載 『竜門雑誌』第461号p.2〔昭和2年2月〕より)

「○上略 十月の廿五六日頃になつて、尾高長七郎が京都から帰つて来た、ソコデ是迄の成行きを詳細に話して、向後事を挙る手続の事も相談して、旁京都の形勢を尋ねて見た所が、長七郎の考へは、丸で反対で、種々に異論があつた、今日から見ると、其時長七郎の意見が適当であつて、自分等の決心は頗る無謀であつた、実に長七郎が自分等大勢の命を救つて呉れたといつてもよい [後略]」
(『渋沢栄一伝記資料』第1巻p.259収載 『雨夜譚』(渋沢栄一述)巻之一 p.28~32〔明治20年〕より)
出典:『渋沢栄一伝記資料』 1編 在郷及ビ仕官時代 天保十一年-明治六年 / 1部 在郷時代 / 2章 青年志士時代 【第1巻 p.259-268】