[ 解説 ]
明治時代、棚田嘉十郎(たなだ・かじゅうろう、1860-1921)ら奈良の篤志家は田畑に埋もれていた平城京大極殿の場所を確認、県民や知事、東京の有力者に保存を呼びかけ、1913(大正2)年2月に奈良大極殿阯保存会が設立されました。会長は徳川頼倫(とくがわ・よりみち、1872-1925)、副会長には渋沢栄一女婿の阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863-1941)が就任、栄一もまた発起人に加わり評議員となっています。
保存会は礎石や碑を設置、さらに跡地を購入することでその保存に努めました。1922(大正11)年、国が史跡に指定、管理が内務省に移行したことで会は解散。その時には殿阯跡地の買収は周辺区画の工事とともに完了していました。同会副会長を務めた阪谷は、古蹟は歴史、学術、教育等に大いに関与するもので、国家が法律を定めて保存するのも棚田氏や保存会のメンバーが熱心に保存事業に従事したのも同じ理由であると述べています。
平城宮跡は1952(昭和27)年には国の特別史跡となり、1998(平成9)年には世界遺産に登録されました。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年~昭和六年 / 1部 社会公共事業 / 9章 其他ノ公共事業 / 4節 史蹟保存 / 3款 奈良大極殿阯保存会 【第49巻 p.312-323】