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横浜生糸売込問屋組合への意見 
 横浜生糸売込問屋組合
『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年-四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 28節 貿易 / 13款 横浜生糸売込問屋組合 【第15巻 p.150-152】
1889(明治22)年6月10日(49歳)
是より先、五月二十二日大蔵大臣松方正義より生糸荷為替取扱上の事につき訓諭あり、仍て是日栄一、横浜生糸売込問屋組合に対し意見を申送り置きたる旨の書翰を萩原源太郎に送る。
[ 解説 ]  「売込問屋」とは「生産者から委託を受けて輸出商や卸売商人に商品を売る営業の問屋」(『広辞苑 - 第四版』(岩波書店、1991)より)のことです。松方は、生糸取引の関係銀行が競って貸附金の割合を上げていることについて、訓諭しています。当時生糸は輸出の花形産業でした。
 萩原源太郎は1879(明治12)年東京商法会議所に就職、書記長として1905(明治38)年まで勤務、後に東京瓦斯に庶務課長として転じ、1914(大正3)年に総務部次長として退職しています(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.620 「宛名人名録」より)。

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横浜生糸売込問屋組合への意見 
 横浜生糸売込問屋組合
1889(明治22)年6月10日(49歳)
是より先、五月二十二日大蔵大臣松方正義より生糸荷為替取扱上の事につき訓諭あり、仍て是日栄一、横浜生糸売込問屋組合に対し意見を申送り置きたる旨の書翰を萩原源太郎に送る。
[ 解説 ]
 「売込問屋」とは「生産者から委託を受けて輸出商や卸売商人に商品を売る営業の問屋」(『広辞苑 - 第四版』(岩波書店、1991)より)のことです。松方は、生糸取引の関係銀行が競って貸附金の割合を上げていることについて、訓諭しています。当時生糸は輸出の花形産業でした。
 萩原源太郎は1879(明治12)年東京商法会議所に就職、書記長として1905(明治38)年まで勤務、後に東京瓦斯に庶務課長として転じ、1914(大正3)年に総務部次長として退職しています(『渋沢栄一伝記資料』別巻4 p.620 「宛名人名録」より)。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年-四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 28節 貿易 / 13款 横浜生糸売込問屋組合 【第15巻 p.150-152】