[ 解説 ]
一企業の隆盛よりも産業全体の発展を重視していた渋沢栄一は、海運、紡績などでも競合する複数の会社を同時に支援したように、麦酒醸造業でも競合する二社の経営を同時に支援しています。1885(明治18)年創立のジャパンブリュワリー(現・麒麟麦酒)には創立当初から出資、同社株主理事員を務めながら、1887(明治20)年には開拓使麦酒醸造所を継承した札幌麦酒の経営に委員長として携わり、設立当初の両社をそれぞれに支援、麦酒醸造業発展に尽力しました。
1894(明治27)年に札幌麦酒の会長に就任した栄一は、1896(明治29)年にはジャパンブリュワリーの理事員を辞任しましたが、その後も麦酒業界は順調に成長しています。札幌麦酒は1903(明治36)年に東京・吾妻橋に工場を新設、1906(明治39)年には日本麦酒、大阪麦酒と合併し、大日本麦酒株式会社へと生まれ変わります。合併後の大日本麦酒でも栄一は1909(明治42)年まで取締役として関与しています。
出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年~四十二年 / 1部 実業・経済 / 3章 商工業 / 9節 麦酒醸造業 / 2款 札幌麦酒株式会社 【第11巻 p.347-362】