事業名:浅野セメント株式会社
浅野セメント合資会社
江東区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の浅野セメント(深川区清住町1番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.75 浅野セメント
画像名:浅野セメント合資会社
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市深川区清住町一番地
一 目的事業 セメント製造販売
一 創立年月日 明治三十一年二月一日
一 資本金 五百万円
一 壱箇年製造高 百弐拾万樽
一 配当率 年壱割弐分
一 支店出張所所在地
   支店 福岡県門司市白木崎
   出張所 大阪、台北、京城、大連
一 沿革
浅野セメント合資会社は、元浅野セメント工場と称し、明治十七年政府より払下を受け開業せるものにして、我国に於ける「ポートランドセメント」製造の嚆矢なり、先之明治四年政府は「セメント」の海外より輸入せらるるもの日に多きを見て、之が製造を内地に起さんと欲し、乃ち地を深川清住町に卜して工場を設け其製造を開始したるも、爾来十余年得失相償はす、明治十三年廟議遂に官業の廃止に決したるを以て、浅野氏は青淵先生の賛助を乞ひ、之を払下け其製造に著手し、漸次事業を拡張し、二十六年門司に分工場を設け、三十二年二月資本金八拾万円の合資組織に改め其規模を拡張し、四十年五月更に資本金を五百万円に増加し、新に輪転式焼窯を購入し、一躍製造力を拡大せり、此の如くにして最初一箇年纔に参万樽を製造したる当会社は、二十五年後の今日壱箇年百弐拾万樽以上を製造販売するに至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は最初浅野氏の官業払下を賛助し、其後明治三十一年合資会社となるや、出資者の一人に加はり、爾来監査役の任にありしが、昨四十二年古希の齢を機とし之を辞せられたるを以て、嗣篤二君代つて監査役となれり、
一 現任社員
   業務執行社員社長 浅野総一郎  監査役 大川平三郎
   監査役 渋沢篤二
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渋沢ゆかりの地

事業名:浅野セメント株式会社
浅野セメント合資会社
江東区
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[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の浅野セメント(深川区清住町1番地)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.75 浅野セメント
画像名:
浅野セメント合資会社
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市深川区清住町一番地
一 目的事業 セメント製造販売
一 創立年月日 明治三十一年二月一日
一 資本金 五百万円
一 壱箇年製造高 百弐拾万樽
一 配当率 年壱割弐分
一 支店出張所所在地
   支店 福岡県門司市白木崎
   出張所 大阪、台北、京城、大連
一 沿革
浅野セメント合資会社は、元浅野セメント工場と称し、明治十七年政府より払下を受け開業せるものにして、我国に於ける「ポートランドセメント」製造の嚆矢なり、先之明治四年政府は「セメント」の海外より輸入せらるるもの日に多きを見て、之が製造を内地に起さんと欲し、乃ち地を深川清住町に卜して工場を設け其製造を開始したるも、爾来十余年得失相償はす、明治十三年廟議遂に官業の廃止に決したるを以て、浅野氏は青淵先生の賛助を乞ひ、之を払下け其製造に著手し、漸次事業を拡張し、二十六年門司に分工場を設け、三十二年二月資本金八拾万円の合資組織に改め其規模を拡張し、四十年五月更に資本金を五百万円に増加し、新に輪転式焼窯を購入し、一躍製造力を拡大せり、此の如くにして最初一箇年纔に参万樽を製造したる当会社は、二十五年後の今日壱箇年百弐拾万樽以上を製造販売するに至れりと云ふ、
一 当社と青淵先生との関係
青淵先生は最初浅野氏の官業払下を賛助し、其後明治三十一年合資会社となるや、出資者の一人に加はり、爾来監査役の任にありしが、昨四十二年古希の齢を機とし之を辞せられたるを以て、嗣篤二君代つて監査役となれり、
一 現任社員
   業務執行社員社長 浅野総一郎  監査役 大川平三郎
   監査役 渋沢篤二
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