渋沢平九郎墓(在谷中渋沢家墓地)
台東区
出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻第十 (竜門社,1971)p.37
画像名:平九郎墓(在谷中渋沢家墓地)
文献に記載されている解説文等:
[P.036-037] … 栄一の不在中、平九郎は江戸へ出て神田本銀町に居を構えていた。明治元年、鳥羽、伏見の戦の後、江戸に逃れて来た渋沢喜作を中心に本多晋、伴門五郎等の他惇忠も加わって彰義隊を結成したが、彰義隊の中心はやがて天野八郎に移り、喜作らは振武軍を起して飯能で官軍と戦うに至った。上掲遺書はこの時平九郎が家の障子に書き残したものである。五月二十二日振武軍は敗北し、翌二十三日平九郎は一人逃れて故郷に向う途中、顔振峠を黒山に下った所で官軍に遭い、小刀を振って三名を傷つけて闘ったが遂に切腹して果てた。官軍はその首を越生の法恩寺の門前に梟し、遺骸は村の人々によって黒山の全洞院に葬られた。
明治六年芝崎義行(確次郎)は栄一に命ぜられて同所に赴いて遺骨を収め、谷中の渋沢家墓地に葬った。翌七年、芝崎他三名の者に依って全洞院に墓が建てられた。明治二十六年に至って惇忠の知人から広島県士族川合鱗三が平九郎切腹の折帯びていた小刀を所持している事が知れて、小刀は渋沢家に戻された。川合は平九郎が黒山で遭遇した官軍の隊長であったのである。更に昭和十五年に至って平九郎の佩刀「月山」も渋沢家に戻った。寄贈者は青森県の佐々木磐夫氏であった。月山の銘には「応渋沢平九郎需」「摂州浪花住月山雲龍子貞一作之。慶応三卯年八月日」とある。
栄一は明治三十二年六月二十五日と四十五年四月十四日の二回黒山に平九郎の跡を弔い、大正七年五月には谷中の渋沢家墓地内に追懐碑を建てた。昭和二十九年三月には黒山に「自決之地」(渋沢敬三書)が建てられ、同三十九年には越生の法恩寺境内に「埋首之碑」(渋沢元治書)が建てられた。黒山全洞院の墓は今日は土俗的な信仰の対象とさえなっているのである。
[P.036-037] … 栄一の不在中、平九郎は江戸へ出て神田本銀町に居を構えていた。明治元年、鳥羽、伏見の戦の後、江戸に逃れて来た渋沢喜作を中心に本多晋、伴門五郎等の他惇忠も加わって彰義隊を結成したが、彰義隊の中心はやがて天野八郎に移り、喜作らは振武軍を起して飯能で官軍と戦うに至った。上掲遺書はこの時平九郎が家の障子に書き残したものである。五月二十二日振武軍は敗北し、翌二十三日平九郎は一人逃れて故郷に向う途中、顔振峠を黒山に下った所で官軍に遭い、小刀を振って三名を傷つけて闘ったが遂に切腹して果てた。官軍はその首を越生の法恩寺の門前に梟し、遺骸は村の人々によって黒山の全洞院に葬られた。
明治六年芝崎義行(確次郎)は栄一に命ぜられて同所に赴いて遺骨を収め、谷中の渋沢家墓地に葬った。翌七年、芝崎他三名の者に依って全洞院に墓が建てられた。明治二十六年に至って惇忠の知人から広島県士族川合鱗三が平九郎切腹の折帯びていた小刀を所持している事が知れて、小刀は渋沢家に戻された。川合は平九郎が黒山で遭遇した官軍の隊長であったのである。更に昭和十五年に至って平九郎の佩刀「月山」も渋沢家に戻った。寄贈者は青森県の佐々木磐夫氏であった。月山の銘には「応渋沢平九郎需」「摂州浪花住月山雲龍子貞一作之。慶応三卯年八月日」とある。
栄一は明治三十二年六月二十五日と四十五年四月十四日の二回黒山に平九郎の跡を弔い、大正七年五月には谷中の渋沢家墓地内に追懐碑を建てた。昭和二十九年三月には黒山に「自決之地」(渋沢敬三書)が建てられ、同三十九年には越生の法恩寺境内に「埋首之碑」(渋沢元治書)が建てられた。黒山全洞院の墓は今日は土俗的な信仰の対象とさえなっているのである。