研究センターだより

47 パネルセッション「再考 帰一協会」/『渋沢栄一と中国― 一九一四年渋沢の中国訪問』出版記念シンポジウム

『青淵』No.810 2016(平成28)年9月号

今回は、第8回東アジア文化交渉学会(5月7日〈土〉於関西大学千里山キャンパス)での「帰一協会」プロジェクトのパネルセッションと『渋沢栄一と中国― 一九一四年の中国訪問』(田丹彡編、于臣抄訳と解説、不二出版、2016年)出版記念シンポジウム(7月23日〈土〉、於渋沢史料館会議室)の内容をご紹介します。

1 パネルセッション「再考 帰一協会」

1909(明治42)年、古希を迎えた渋沢栄一は、実業界の第一線から引退し、社会公益慈善活動により多くの時間と労力を注ぐようになります。その背景には、日露戦争後の内外の思想状況に対する渋沢の危機意識があったと考えられます。その実践の一つが、1912年6月に渋沢邸で発足した帰一協会です。1909年渡米実業団団長として米国主要都市を歴訪し、米国を代表する政治家、財界人、教育者、宗教思想家たちと面談した渋沢は、1911年の辛亥革命による清国崩壊を目の当たりにして、国際社会が奥深いところで変動し始めていることを予感しました。そこで世界平和を希求するため、各宗教や道徳に共通する要素を一つにまとめ、「統一的宗教」を議論すること等を提起します。同席した宗教学者、教育者、実業家はそれぞれ、この組織に期待や不安を抱きながらも、第一次世界大戦期までは、精力的な会合が重ねられました。出版物も積極的に刊行し、帰一協会の活動費のかなりの部分は、渋沢自身が負担しました。次第に参加者それぞれの思惑に齟齬が生じ始め、渋沢の死後はほとんど休会状態に陥り、明確な成果を出せないうちに1942年(昭和17)に幕を閉じました。そのためか、渋沢栄一伝記資料に帰一協会に関する相当な量の資料が収録されているにもかかわらず、いままで本格的な研究はなされてきませんでした。

しかし、100年後の今日、帰一協会で議論された内容は再考するに値するかもしれません。グローバル化した民主主義や資本主義、その中で生じた格差やモラルなきリーダーに対する強い反発や不満が世界中に渦巻き、無差別テロ、人種間対立、移民排斥は激しさを増し、今こそ人類共通のモラルが必要とされているからです。

そこで、帰一協会に参加した成瀬仁蔵、浮田和民、服部宇之吉、姉崎正治など中心人物が協会を通じて何を実践しようとしたのかについて報告しました。これに対して、山折哲雄(宗教学者)、小田淑子(イスラム研究者)両先生から、渋沢の社会公益活動の中に帰一協会を改めて位置づけ直すことは、協会自体の、また渋沢栄一の歴史的意味や役割を考察できる良いテーマであり、今日世界の思想状況を考えるうえでも重要な研究になるという前向きのコメントをいただきました。10月上旬には研究合宿を行い、来年にはその成果を出版することになりました。

2 『渋沢栄一と中国― 一九一四年渋沢の中国訪問』出版記念シンポジウム

原書は、2013年に華中師範大学渋沢栄一研究センターの田教授が、同大学大学院生の協力を得て、1914年5月から6月に行われた渋沢栄一の中国訪問に関する中国各地の新聞記事をまとめ、華中師範大学出版会から刊行した資料集『1914渋沢栄一中国行』です。これを日本語に抄訳し、解説をつけ不二出版から刊行しました。シンポジウムでは華中師範大学と当財団との関係や、本書の刊行に至った経緯を紹介したのち、翻訳と解説を担当された于臣(ユチェン)横浜国立大学准教授が、1時間、渋沢の中国訪問時の中国国内状況や日中関係について触れ、注目すべき点を解説しました。

2部構成の第1部では、中国各地新聞は、渋沢栄一を日本経済の近代化に大きな足跡を残した日本経済界を代表する人物で、日本政府と密接な関係を有していると紹介しました。また渋沢の高潔な人格や中国文化への深い造詣を高く評価しています。これに対して、英字新聞は、渋沢が揚子江流域に日本の利権を拡大しようとしているとして警戒感を隠しません。渋沢はこの報道に対して、憤然として、訪中目的は利権拡大ではなく、孔子廟の訪問と中国社会の視察であり、政治とは無関係であることを強調しました。満州への日本の進出にはそれほど神経をとがらせなかった英国も自らの権益の中心地である揚子江以南の地域への日本の進出には過敏になっていたといえます。

興味深いのは、渋沢の唱える道徳経済合一説を中国の新聞報道は、理想であるが実現は無理と全く評価していないことです。この記事に代表されるような中国内での孔子や論語に対する低い評価や、経済活動は弱肉強食の世界であり、日本自身が中国市場でそれを実践しているという指摘には渋沢はショックを受けたようです。中国の現状に対する渋沢の失望感は大きかったようですが、帰国後も論語の教えや道徳経済合一説の普及にはさらに力を入れることになります。

第2部は、当時の日中関係に大きな影響を及ぼした山座円次郎在華公使の突然の死去に関する報道記事です。山座は小村寿太郎に見いだされ、中国通として孫文はじめ中国要人との太い人脈を作り、対中政策に不可欠な人材でした。ただし袁世凱とは微妙な関係にあったため、山座の突然の死は暗殺説すら飛び出すほどで、渋沢が体調不良を理由に念願の孔子廟訪問を取りやめ、急きょ帰国したことにも関係があるのかもしれません。30名近くの参加者が熱心に聴講し、質疑応答も活発でした。

主幹(研究)木村昌人


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