史料館だより

45 『徳川慶喜公伝』と渋沢栄一

『青淵』No.760 2012(平成24)年7月号

鮫島純子さんの講演会

 本年6月2日(土)に、国際仏教学大学院大学(東京・文京区春日)において、鮫島純子さんの講演会「徳川慶喜公と渋沢栄一」が開催され、筆者も拝聴する機会を得ました。鮫島純子さんは周知の通り、渋沢栄一の令孫であり、また『祖父・渋沢栄一に学んだこと』などの著者でもあります。
 講演会では、鮫島さんご自身のご記憶や体験などを基にした、渋沢栄一にまつわる貴重なお話、さらに司会者として一緒に登壇した当館の川上学芸員とのトーク形式で、徳川慶喜や徳川家との関わりなど、大変興味深いお話を伺うことができました。

『徳川慶喜公伝』

 鮫島さんによるご講演でも紹介されていましたが、幕末の時代に、渋沢栄一は徳川慶喜に仕えていました。その後、明治26年頃に渋沢栄一は、旧主・徳川慶喜の伝記編纂を企図しました。それは明治維新時における慶喜の真意を正しく後世に伝えたいという、栄一の熱い思いによるものでした。
 当初の編纂と執筆は福地源一郎に依頼しましたが、福地が多忙を極め、さらに病気のため一時中断。明治40年に歴史学者の三上参次、萩野由之らを監修者として編纂が再開し、大正7年に『徳川慶喜公伝』全8巻がようやく刊行されました(以下、『慶喜公伝』とする)。


(1)『徳川慶喜公伝』

 この『慶喜公伝』について、その編纂過程や執筆がどのようになされたのか、という点は、あまり詳しいことが判明しません。それは編纂に関する資料の大部分が大正12年9月におきた関東大震災によって焼失したからです。『慶喜公伝』の編纂は、当初、深川福住町の渋沢栄一邸で、後に兜町の栄一の事務所で行われており、編纂終了後、関係書類や編纂に使用した資料は兜町の事務所に保管されていたのでした。
 大震災後の調査記録によると、『慶喜公伝』の稿本(慶喜や 栄一が実際に手にしていたもの)、「昔夢会筆記」(慶喜への聞き取り調査の記録)の原本、引用した史料(多くは筆写)、文献資料、編纂の事務・経費書類など、編纂に関する記録・資料類のほとんどが失われています。これらの資料類を後にゆっくりと読むことを楽しみにしていた栄一は、資料の焼失を大変悲しみました。
 ただ、幸運なことに渋沢史料館には編纂に関する資料が、ごく一部ですが伝わっています。
「稿本」(写真(2))はその1つです。修正などが施された箇所は確認できませんが、伝記が完成する以前の状況を知ることができる貴重な資料です。


(2)『徳川慶喜公伝』稿本(一部)

 写真(3)は、「序文」稿本です。「序文」は栄一によるもので、慶喜との関わりや編纂経緯などの思いが41頁に渡って記されています。この稿本では修正箇所が確認でき、「序文」の成り立ちをうかがうことができます。


(3)『徳川慶喜公伝』「序文」稿本

 また当館では編纂関係者の書簡資料を収蔵しており、写真(4)は、明治29年10月7日付で渋沢栄一が江間政発に宛てた書簡です。江間は旧桑名藩士・漢学者で、『慶喜公伝』編纂所の一員として、主に史料蒐集に従事しました。栄一は書簡の中で、福地による伝記原稿の進行が遅く「頗る待遠き事」と述べ、さらに「福地へせり立方、今一般御骨折被下度候」と記しており、原稿や書類だけでは分からない、編纂状況の一端を知ることができます。


(4)江間政発宛 渋沢栄一書簡

 明年・平成25年は、徳川慶喜が亡くなってからちょうど100年という年にあたります。この節目の年に当館においても、今回ご紹介した資料を活用して、徳川慶喜と栄一との関係や、『慶喜公伝』編纂に情熱を燃やした栄一の思いを知っていただけるような展示などを検討しています。

(学芸員 関根 仁)


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