史料館だより

42 渋沢栄一と増田義一 ―企画展「渋沢栄一と『実業之日本』」開催にあたって―

『青淵』No.751 2011(平成23)年10月号


実業之日本社創立30周年記念
晩餐会(部分)
渋沢栄一の左が増田義一

 渋沢栄一は第一銀行頭取など実業家として活動するなかで、講演や寄稿などを通じて自身の意見を広く社会に発信していました。
 渋沢が多く寄稿していた雑誌に『実業之日本』があります。同誌は、明治30年に創刊された近代日本を代表する経済雑誌の1つです。そして同誌を発行していた実業之日本社の初代社長が、掲載写真に見える増田義一です。
 増田は明治2年、新潟に生まれ、14年に小学校高等科を卒業後すぐに小学校代用教員となります。翌15年に教員中等免状を得て勤務した後、一時上京しますが帰郷して教員を続け、22年には教員を辞して改進党系の高田新聞社に入社し、政治記者として活動します。翌23年に再び上京し、尊敬していた大隈重信が創設した東京専門学校に入学。26年に最優等で卒業し、そのまま同校研究科に進学して財政学を専攻。28年には読売新聞社に入社。経済部記者として活動し、渋沢栄一、大倉喜八郎、岩崎弥之助、安田善次郎など多くの実業家たちと親交をもち、これが後の活動につながることになります。同年、東京専門学校の同窓だった光岡威一郎の大日本実業学会に参画し、30年に『実業之日本』が創刊されると読売新聞記者のかたわら、同誌の編集を担当。23年には光岡より『実業之日本』の雑誌発行・経営権を引継ぎ、「実業之日本社」を創立して初代社長となりました。以後、増田は同社の経営と発展に尽力し、現在も出版界で活躍されている同社の基礎を築きました。
 渋沢栄一は、『実業之日本』の創刊当時から、頻繁に寄稿したり談話を同誌上で発表したりしています。内容は経済・財政意見、時事論、道徳経済合一説を基にした処世訓や体験談など多岐にわたります。
 また、渋沢は同誌に文章を寄せるだけではなく、同社主催の展覧会やイベント、創立周年記念事業にも参加して、祝辞などを述べています。さらに大正2年に同社内で設立された通信教育事業「帝国実業講習会」の副総裁に就任し、講師としても参加するなど、渋沢は1人の実業家として積極的に同社の事業に協力したのです。


渋沢栄一宛 増田義一 絵はがき(昭和3年11月10日付)

 これは、渋沢栄一が『実業之日本』という雑誌を高く評価し、そして同社社長の増田義一を信頼していたということでしょう。渋沢と増田の間には書簡のやり取りも確認でき、当館には渋沢宛ての増田書簡が数点所蔵されています。掲載写真はそのうちの1点で、これは昭和3年に増田が京都から渋沢に宛てた絵はがきです。この時に増田は、京都御所で催された昭和天皇の即位大典に参列し、感動した気持ちをすぐに渋沢に伝えています。
 こうした書簡資料は、渋沢と増田が単に寄稿者と出版人という関係ではなく、年齢は離れていながらも、互いに実業界を通じて活動し、「人と人」としての親交があったことを示しているのではないでしょうか。
 さて、渋沢史料館では10月1日より企画展「渋沢栄一と『実業之日本』〜雑誌メディアに見る実業家たち〜」を開催いたします。
 渋沢栄一の没後80年を迎える本年、この展示では、渋沢栄一が雑誌『実業之日本』にどのような意見を寄稿していたのかを振り返るとともに、同時代に活躍した実業家たちの記事もご紹介いたします(今回ご紹介した書簡も展示いたします)。そして『実業之日本』を通して、近代日本における実業家と雑誌メディアとの関連をご覧いただきます。
 秋深まる飛鳥山公園・渋沢史料館に、ぜひ多くの皆様のご来館をお待ち申し上げております。

(学芸員 関根 仁)

※企画展開催情報の詳細は、当館ホームページやチラシなどをご覧ください。


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