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2013.03.16展示

企画展 渋沢栄一と王子製紙株式会社 〜国家社会の為に此の事業を起す〜

開催期間 2013/3/16~2013/5/26 会場 渋沢史料館 会議室

王子製紙場之景(部分)
王子製紙場之景(部分)

会 期 2013年3月16日(土)〜5月26日(日)
10:00〜17:00(入館は16:30まで)
開館カレンダー
関連講演会:2013年4月20日(土) 13:30〜15:00
主催・会場 渋沢史料館
〒114-0024 東京都北区西ヶ原2-16-1 飛鳥山公園内
アクセスマップ
電話:03-3910-0005 ファクス:03-3910-0085
後 援 王子ホールディングス株式会社、 公益財団法人紙の博物館

みどころ

王子ホールディングス株式会社(2012年、王子製紙株式会社から社名変更)は、渋沢栄一が、その母体となった「抄紙会社」を誕生させてから、本年で創立140周年を迎えます。渋沢史料館では、この記念の年に、栄一と同社の関わりを紹介する企画展を開催いたします。

展示概要

明治維新後、渋沢栄一は、あらゆる事業を盛んにするためには、人々の知識を高める書籍や新聞などの印刷物の普及が必要で、そのためには安価で大量印刷が可能な洋紙製造をすべきと考えます。そして、明治6年、抄紙会社(後の王子製紙株式会社 現・王子ホールディングス株式会社の前身)を創立します。
本展では、創立後、幾多の困難に直面した栄一が、悩みながらも同社を製紙業界のリーダー的存在として育成し、次代へ引き継ぐ様子を通して、栄一と王子製紙の関わりをご紹介します。

展示構成

  • 序 章 洋紙への着目
  • 第1章 創る〜製紙事業起業への挑戦〜
  • 第2章 育てる〜人・技術〜
  • 第3章 引き継ぐ〜栄一の辞任〜
  • 終 章 「渋沢栄一」の継承〜王子ホールディングス株式会社の現在〜

主な展示資料

*当館ホームページ掲載の公益財団法人紙の博物館所蔵の資料名称は、渋沢史料館が独自につけたものです。

関連の催し

講演会「日本の近代化における和紙から洋紙への転換の意義」

和紙から洋紙への転換の意義、またその過程で栄一が果たした役割を考えます。

講 師 尾鍋史彦氏(東京大学名誉教授 前日本印刷学会会長)
日 時 2013年4月20日(土) 13:30〜15:00
会 場 渋沢史料館 会議室
定 員 40名(事前申込 先着順)
参加費 無料(要入館料)

申込み受付は終了しました。

本企画展にちなみ、5月19日(日)にシンポジウム「北区の近代産業ルネッサンス―王子製紙・印刷局―」を開催します。

展覧会図録

渋沢史料館ミュージアムショップでお求めいただけます。
『渋沢栄一と王子製紙株式会社〜国家社会の為に此の事業を起す〜』

渋沢栄一と王子製紙株式会社
ページ数 約70p 価格1,000円

広報印刷物

関連情報

1.後援企業・団体 (外部リンク)

2.王子ホールディングス株式会社のウェブサイトにおける渋沢栄一関連ページ (外部リンク)

3.『渋沢栄一伝記資料』における王子製紙関連事項

4.渋沢栄一関連会社社名変遷図

5.社史関連情報

企画展 「渋沢栄一と王子製紙株式会社」展示資料のご紹介

「東亰王子製紙会社」黒塗横看板

明治23年(1890) 公益財団法人紙の博物館所蔵

「東亰王子製紙会社」黒塗横看板

明治23年に開催された第3回内国勧業博覧会(東京・上野公園)に「製紙会社」(王子製紙株式会社の前身)が出品した際、会場で使用された看板です。
この年、同社は、博覧会開催に先立ち、日本初の木材パルプ製造工場・気田工場(静岡県)開業式を挙行、王子でも第二工場の開業を遂げています。この黒塗看板からは、一大飛躍をし、公益に資せんとする栄一や同社の人々の意気込みが伝わってきます。

武陽王子飛鳥山真景 鉄齊菅真郷画

明治21年(1888) 独立行政法人 国立印刷局王子工場所蔵

武陽王子飛鳥山真景

この絵には、中央に飛鳥山、山上左手には、渋沢栄一の飛鳥山邸の建物が描かれ、その麓中央に「製紙会社」(後の王子製紙株式会社)王子工場が描かれています。
抄紙会社(後の王子製紙)王子工場は、明治8年(1875)、工場操業を開始、同年12月16日には開業式を盛大に行いました。栄一が飛鳥山に土地を購入したのは、それから間もない明治10年で、同12年から別荘として使用しています。栄一が飛鳥山に別荘を定めた理由の一つとして、栄一自ら創業に尽力してきた王子製紙を見守り続けたいという思いがあったためではないかと考えられています。
この絵が描かれたのは、栄一が「製紙会社」を、製紙業界のリーダー的存在に育成し、さらなる発展を目指していた明治21年(1888)です。
この年は、日本で最初の木材パルプ製造工場となる気田工場(静岡県の天竜川支流気田川沿岸)や王子工場内の第二工場の建設など、王子製紙会社が、積極的な事業拡張に着手した年でした。
飛鳥山邸の栄一が見守るかのように、中央に描かれた「製紙会社」王子工場の煙突の煙に、当時の同社の意気込みが感じ取れるかのような絵です。
(*左端の2本の煙突が立っている工場は、大蔵省印刷局抄紙部の工場。また飛鳥山右手には、王子神社や王子稲荷の森も描かれています。)

亀山の洋館断面図

年未詳 公益財団法人紙の博物館所蔵

亀山の洋館断面図

明治7年(1874)、抄紙会社(後の王子製紙株式会社)は、機械・建築技師 フランク・チースメン(イギリス人)と抄紙技師 トーマス・ボツトムリー(アメリカ人)を雇用しました。当初、適当な西洋式の旅館などがなかったため、栄一が総監役を務めていた第一国立銀行の2階、3階を借用し、彼らを仮住まいさせました。同年中に、鹿島岩蔵(後、鹿島組(現・鹿島建設)初代組長)に依頼して建築中の王子工場地近くの亀山(現・東京都北区岸町1丁目)と呼ばれていた地に、この洋館が完成しました。彼らの要望で、洋館には暖炉が設置され、裏には小使部屋と台所が併設された家屋1棟も建てられていました。

この亀山の洋館は明治10年(1877)、両外国人が任期を終え、同社を辞めた後、一時、空き家になっていました。そんなおり、栄一が住む深川福住町界隈ではコレラが流行します。そのため、栄一は、この洋館に避難して半年ほど仮住まいしています。

「王子製紙会社」名義の第一国立銀行当座預金通帳

明治26年(1893) 公益財団法人紙の博物館所蔵

「王子製紙会社」名義の第一国立銀行当座預金通帳明治7年(1874)、抄紙会社(明治9年より「製紙会社」と社名変更。後の王子製紙株式会社)は、栄一が総監役にあった第一国立銀行と資本金・収入金の預入や貸借に関わる約定を結びました。この際、同銀行が発行したのが「貸借差引勘定帳并小切手通帳」です。この通帳にも記載がある貸借勘定や小切手発行の状況から、この頃の第一国立銀行と「製紙会社」との結びつきの強さがうかがえます。
通帳表紙には、「製紙会社」名の右脇あたりに、異なる筆で「王子」と書かれています。
この通帳が使用されていた明治26年は、11月に「製紙会社」から社名が、「王子製紙株式会社」と改められています。異筆の「王子」も、この社名変更にあわせて追記したものではないかと思われます。

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