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大学設立のための会合に岩崎弥之助らと共に出席
同志社大学
『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年-四十二年 / 2部 社会公共事業 / 4章 教育 / 3節 其他ノ教育 / 2款 同志社大学 【第27巻 p.8-32】
1888(明治21)年7月19日(48歳)
是より先四月二十二日、栄一、同志社大学設立につき井上馨邸に催されたる新島襄後援の為めの会合に出席し、是日重ねて同主意のもとに開かれたる大隈外務大臣官邸の集会に岩崎弥之助等と共に出席、之を賛助して金六千円寄附を決す。爾後栄一、右基金の募集及び管理に尽力する所頗る多し。
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[ 解説 ]  1888(明治21)年、新島襄(にいじま・じょう、1843-1890。教育者)は、私立大学同志社の設立を計画、各方面に広く協力を呼びかけました。1888(明治21)年7月19日、大隈重信外務大臣官邸において、新島を支援するための会合が開催され、渋沢栄一は岩崎弥之助(いわさき・やのすけ、1851-1908)らとともに出席、大学設立のために寄付をし、更にはその基金募集、管理にも尽力しています。
 その年の11月10日、新島は新聞・雑誌各社に「同志社大学設立の旨意」と題する文章を公表、広く資金提供を呼びかけました。その中で新島は大学設立の目的を「独り普通の英学を教授するのみならず、其徳性を涵養し、其品行を高尚ならしめ、其精神を正大ならしめんことを勉め、独り技芸才能ある人物を教育するに止まらず、所謂る良心を手腕に運用するの人物を出さん事」「一国を維持するは、決して二、三英雄の力に非ず。実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず。是等の人民は一国の良心とも謂ふ可き人々なり。而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと欲す。」と述べています。(『渋沢栄一伝記資料』第27巻p.9-17に全文掲載)
 それから2年後の1890(明治23)年の1月、新島は旅先の大磯で他界、同年4月に関西を訪れた栄一は同志社を訪問、請われて演説を行いました。演説の中で栄一は、「日本人の気風は、何故か、政治・文学・哲学等、凡て無形に属する学問にのみ馳するの趣ありて、理化学或ハ商工等有形的の学問には格別耳を寄せざるの傾向」があるとし、「一通り学問のある人が工業を興し或は器械を設くる」は実に少なく、学生の進路が官吏か教育者に偏重していることに対して疑義を唱えています。さらに新島襄に自らの教育観を語った際のエピソードとともに同志社の学生に望むことを次のように語りました。

「 左の一篇ハ四月廿四日渋沢氏が同志社公堂に於てなせる演説を筆記せるものなり、然れども筆記者の狸毛の渋難なるより、自然辞足らず意通せずして氏の主旨を失へる箇処もあらんと思ふ、読者諸君乞ふ諒せよ                     U.I. 生記
[前略] 予が嘗て新島先生に見えし時、近来西洋の文明入り来りしより、智識上に於てハ頗る進歩せるものゝ如く見ゆれども、道徳上に於ては少しも進歩せざるのみならず、却て退くものゝ如く、今や徳気殆ど地を掃ふに至るは悲むべきことなりと述べしに、先生大に慨嘆して、君の言へる如く、予ハ常に之を憂ひ居る所なり、予ハ予の学校を以て此等のものを改革せんと欲するなり、君の言誠に感心の外なきなりと、涙を含で仰せられたる事なり、それ故に予が最も特に此同志社に望を措く所以のものハ、決して智育にあらす、決して奇才子を得る為めにあらず、智才固より必要なるが猶此上に支那にて所謂仁義忠孝といふ如き徳育を加へ、正直にして且つ確固不抜の精神ある人物を生ずるに在り、之れ実に新島先生の素志にして、亦予が諸君に望む所のものなり、併同志社の生徒は社会の実用に応ずるにハ如何なりや、予之を知らず、唯予ハ将来に向て大に望を嘱せんと欲するなり、故に予が今日諸君に望む所は、立派なる教員或ハ官吏となれとにあらず、唯智あり徳あり、殊に徳ある実用的の人物となられんこと是なり、此の如く智徳兼ね備はれる実用的の人物となり、務めて同志社の功能を天下に発表しなば、一は以て新島先生の志をなすべく、又予の望をも満たすことを得て此上もなき仕合と思ふなり、以上述ぶる所ろ実に予が微衷にして即ち予が諸君に望む所ろ、冀くハ諸君何卒新島先生の言の、虚にならざる様、水泡に帰せざる様注意に注意を加へて、益々学芸に勉励あらんこと切に希望に堪へざるなり」
(『渋沢栄一伝記資料』第27巻p.33-35掲載 『同志社文学会雑誌』第33号 明治23年5月 渋沢栄一氏演説の大要より)

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大学設立のための会合に岩崎弥之助らと共に出席
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1888(明治21)年7月19日(48歳)
是より先四月二十二日、栄一、同志社大学設立につき井上馨邸に催されたる新島襄後援の為めの会合に出席し、是日重ねて同主意のもとに開かれたる大隈外務大臣官邸の集会に岩崎弥之助等と共に出席、之を賛助して金六千円寄附を決す。爾後栄一、右基金の募集及び管理に尽力する所頗る多し。
[ 解説 ]
 1888(明治21)年、新島襄(にいじま・じょう、1843-1890。教育者)は、私立大学同志社の設立を計画、各方面に広く協力を呼びかけました。1888(明治21)年7月19日、大隈重信外務大臣官邸において、新島を支援するための会合が開催され、渋沢栄一は岩崎弥之助(いわさき・やのすけ、1851-1908)らとともに出席、大学設立のために寄付をし、更にはその基金募集、管理にも尽力しています。
 その年の11月10日、新島は新聞・雑誌各社に「同志社大学設立の旨意」と題する文章を公表、広く資金提供を呼びかけました。その中で新島は大学設立の目的を「独り普通の英学を教授するのみならず、其徳性を涵養し、其品行を高尚ならしめ、其精神を正大ならしめんことを勉め、独り技芸才能ある人物を教育するに止まらず、所謂る良心を手腕に運用するの人物を出さん事」「一国を維持するは、決して二、三英雄の力に非ず。実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず。是等の人民は一国の良心とも謂ふ可き人々なり。而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと欲す。」と述べています。(『渋沢栄一伝記資料』第27巻p.9-17に全文掲載)
 それから2年後の1890(明治23)年の1月、新島は旅先の大磯で他界、同年4月に関西を訪れた栄一は同志社を訪問、請われて演説を行いました。演説の中で栄一は、「日本人の気風は、何故か、政治・文学・哲学等、凡て無形に属する学問にのみ馳するの趣ありて、理化学或ハ商工等有形的の学問には格別耳を寄せざるの傾向」があるとし、「一通り学問のある人が工業を興し或は器械を設くる」は実に少なく、学生の進路が官吏か教育者に偏重していることに対して疑義を唱えています。さらに新島襄に自らの教育観を語った際のエピソードとともに同志社の学生に望むことを次のように語りました。

「 左の一篇ハ四月廿四日渋沢氏が同志社公堂に於てなせる演説を筆記せるものなり、然れども筆記者の狸毛の渋難なるより、自然辞足らず意通せずして氏の主旨を失へる箇処もあらんと思ふ、読者諸君乞ふ諒せよ                     U.I. 生記
[前略] 予が嘗て新島先生に見えし時、近来西洋の文明入り来りしより、智識上に於てハ頗る進歩せるものゝ如く見ゆれども、道徳上に於ては少しも進歩せざるのみならず、却て退くものゝ如く、今や徳気殆ど地を掃ふに至るは悲むべきことなりと述べしに、先生大に慨嘆して、君の言へる如く、予ハ常に之を憂ひ居る所なり、予ハ予の学校を以て此等のものを改革せんと欲するなり、君の言誠に感心の外なきなりと、涙を含で仰せられたる事なり、それ故に予が最も特に此同志社に望を措く所以のものハ、決して智育にあらす、決して奇才子を得る為めにあらず、智才固より必要なるが猶此上に支那にて所謂仁義忠孝といふ如き徳育を加へ、正直にして且つ確固不抜の精神ある人物を生ずるに在り、之れ実に新島先生の素志にして、亦予が諸君に望む所のものなり、併同志社の生徒は社会の実用に応ずるにハ如何なりや、予之を知らず、唯予ハ将来に向て大に望を嘱せんと欲するなり、故に予が今日諸君に望む所は、立派なる教員或ハ官吏となれとにあらず、唯智あり徳あり、殊に徳ある実用的の人物となられんこと是なり、此の如く智徳兼ね備はれる実用的の人物となり、務めて同志社の功能を天下に発表しなば、一は以て新島先生の志をなすべく、又予の望をも満たすことを得て此上もなき仕合と思ふなり、以上述ぶる所ろ実に予が微衷にして即ち予が諸君に望む所ろ、冀くハ諸君何卒新島先生の言の、虚にならざる様、水泡に帰せざる様注意に注意を加へて、益々学芸に勉励あらんこと切に希望に堪へざるなり」
(『渋沢栄一伝記資料』第27巻p.33-35掲載 『同志社文学会雑誌』第33号 明治23年5月 渋沢栄一氏演説の大要より)

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出典:『渋沢栄一伝記資料』 2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代 明治六年-四十二年 / 2部 社会公共事業 / 4章 教育 / 3節 其他ノ教育 / 2款 同志社大学 【第27巻 p.8-32】