事業名:日本女子大学校
日本女子大学校
文京区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の日本女子大学の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.147 日本女子大学校
画像名:日本女子大学校
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市小石川区高田豊川町
一 目的事業 女子高等教育の普及
一 開校年月日 明治三十四年四月二十日
一 資産総額 五拾万千四百九拾六円
   外に敷地一万六千七百八十坪、建坪二千七百七十一坪余
一 現在生徒数 壱千弐百拾八名
一 教授教諭教員講師 九拾参名
一 沿革
教育の振否は国民強弱の岐るる所、而して女子教育は国民精神を振作する所の源泉なりとは、現校長成瀬仁蔵氏の宿論にして、氏が多年女子教育に従事したる経験と、泰西女子教育の実際とを参酌し、女子高等教育の目的を以て当校の設立を企てたるは明治二十九年の春なりき、当時女子高等教育尚早論少なからす、従て其設立には非常の困難を感せしが、成瀬氏は此間に立ち、現学監麻生正蔵氏と共に南船北馬東西に遊説し、大に世論の喚起に力め、遂に朝野有力者の賛助を得、三十年四月始めて発起人会を開き、続て創立委員を選定し、広く資金の募集に従事し、爾来数年、予定の資金を得て機運茲に熟し、三十四年四月を以て開校するに至れり、事畏くも天聴に達し 皇后陛下の御思召を以て金弐千円を恩賜せらる三十七年二月専門学校の組織に改め、漸次校運の進むに伴ひ一層基礎の鞏固を謀らん為め、三十八年五月財団法人となし、数次の拡張改革を経、以て今日の状態を見るに至れりと云ふ、
一 当校と青淵先生との関係
先生は、当校設立の計画発表あるや、其創立委員となり会計監督を兼ね、資金の募集に尽力せられ、亦自ら多額の資金を寄附せられたるのみならす、晩香寮と称する寄宿舎の一部落を建築寄附せられ、又本校の基礎漸く鞏固となりて、三十八年五月財団法人となりたる後は、評議員となり財務委員に挙けられ、終始渝はらす劇忙の身を以て常に本校の改善発展に力を致されつつあり、
一 現任役員
   理事兼校長 成瀬仁蔵  監事 三井三郎助
   教務委員侯爵 西園寺公望  教務委員伯爵 大隈重信
   教務委員男爵 久保田譲  財務委員男爵 渋沢栄一
   財務委員 森村市左衛門
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渋沢ゆかりの地

事業名:日本女子大学校
日本女子大学校
文京区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは現在の日本女子大学の位置を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.147 日本女子大学校
画像名:
日本女子大学校
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市小石川区高田豊川町
一 目的事業 女子高等教育の普及
一 開校年月日 明治三十四年四月二十日
一 資産総額 五拾万千四百九拾六円
   外に敷地一万六千七百八十坪、建坪二千七百七十一坪余
一 現在生徒数 壱千弐百拾八名
一 教授教諭教員講師 九拾参名
一 沿革
教育の振否は国民強弱の岐るる所、而して女子教育は国民精神を振作する所の源泉なりとは、現校長成瀬仁蔵氏の宿論にして、氏が多年女子教育に従事したる経験と、泰西女子教育の実際とを参酌し、女子高等教育の目的を以て当校の設立を企てたるは明治二十九年の春なりき、当時女子高等教育尚早論少なからす、従て其設立には非常の困難を感せしが、成瀬氏は此間に立ち、現学監麻生正蔵氏と共に南船北馬東西に遊説し、大に世論の喚起に力め、遂に朝野有力者の賛助を得、三十年四月始めて発起人会を開き、続て創立委員を選定し、広く資金の募集に従事し、爾来数年、予定の資金を得て機運茲に熟し、三十四年四月を以て開校するに至れり、事畏くも天聴に達し 皇后陛下の御思召を以て金弐千円を恩賜せらる三十七年二月専門学校の組織に改め、漸次校運の進むに伴ひ一層基礎の鞏固を謀らん為め、三十八年五月財団法人となし、数次の拡張改革を経、以て今日の状態を見るに至れりと云ふ、
一 当校と青淵先生との関係
先生は、当校設立の計画発表あるや、其創立委員となり会計監督を兼ね、資金の募集に尽力せられ、亦自ら多額の資金を寄附せられたるのみならす、晩香寮と称する寄宿舎の一部落を建築寄附せられ、又本校の基礎漸く鞏固となりて、三十八年五月財団法人となりたる後は、評議員となり財務委員に挙けられ、終始渝はらす劇忙の身を以て常に本校の改善発展に力を致されつつあり、
一 現任役員
   理事兼校長 成瀬仁蔵  監事 三井三郎助
   教務委員侯爵 西園寺公望  教務委員伯爵 大隈重信
   教務委員男爵 久保田譲  財務委員男爵 渋沢栄一
   財務委員 森村市左衛門
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