事業名:東京高等商業学校 付.社団法人如水会
東京高等商業学校
千代田区
画像1
[撮影日] 不詳 [撮影者] 不詳
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の東京高等商業学校(神田区一ツ橋通町)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.133 東京高等商業学校
画像名:東京高等商業学校
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市神田区一ツ橋通町
一 目的事業 高等商業教育
一 創立年月日 明治十八年九月二十二日
一 現在生徒数 壱千四百参拾九名
一 教授及講師等 七拾有余名
一 沿革
当校は明治十八年九月二十二日の開設にして、東京外国語学校並に同校所属高等商業学校と、旧農商務省直轄東京商業学校とを併せたるものに係れり、抑々旧東京商業学校は明治八年八月故子爵森有礼氏が東京尾張町に私設せる商法講習所に濫觴せるものにして、子の全権公使となり清国駐紮の命を奉するや、校事を挙けて東京商法会議所に附す、之より同所の監理に属し次て府立となる、青淵先生が本校に関係を有するに至りしは此時に始まる、爾来先生は商法講習所委員として、益田孝氏故福地源一郎氏等と共に経営の任に当りしが、同十四年七月府会は経費の支出を拒み、講習所は為めに閉鎖するに至りしかは、所長故矢野次郎翁及先生等大に之を憂慮し、遂に其尽力により同年九月に至り、府庁をして農商務省に稟請して其補助を仰かしめ復ひ之を興すに至りしも、而も補助金其他資金の不足なる、到底校運の発展を期する能はさるを見るや、先生は率先有志を勧誘し、商業教育の急を唱へて同志を募り、互に醵金して当講習所維持の資に充てしめたり、斯くて基礎漸く立つや、明治十七年農商務省の直轄官立学校となり東京商業学校と改称し、先生及益田孝、富田鉄之助の諸氏商議委員に嘱托せらる、翌十八年文部省の直轄となり高等商業学校と改め、明治三十五年更に現在の名称に改む、当校は創立以来卒業生を出すこと既に弐千七百有余人にして、商工界を始め各般の方面に於て、是等諸氏が重鎮となり、活動しつつあるは慶賀すへきことと云ふへし、而して先生は引続き今尚商議委員の任にあり、
一 現任役員
   校長事務取扱 沢柳政太郎
   商議委員
    男爵渋沢栄一  益田孝
    園田孝吉  阿部泰蔵
    和田垣謙三  近藤廉平
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渋沢ゆかりの地

事業名:東京高等商業学校 付.社団法人如水会
東京高等商業学校
千代田区
画像1
[ マップ上の位置情報について ]
ピンは当時の東京高等商業学校(神田区一ツ橋通町)周辺を示す。
『渋沢栄一伝記資料』中の関連情報
出典:
『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会,1911)p.133 東京高等商業学校
画像名:
東京高等商業学校
文献に記載されている解説文等:
一 所在地 東京市神田区一ツ橋通町
一 目的事業 高等商業教育
一 創立年月日 明治十八年九月二十二日
一 現在生徒数 壱千四百参拾九名
一 教授及講師等 七拾有余名
一 沿革
当校は明治十八年九月二十二日の開設にして、東京外国語学校並に同校所属高等商業学校と、旧農商務省直轄東京商業学校とを併せたるものに係れり、抑々旧東京商業学校は明治八年八月故子爵森有礼氏が東京尾張町に私設せる商法講習所に濫觴せるものにして、子の全権公使となり清国駐紮の命を奉するや、校事を挙けて東京商法会議所に附す、之より同所の監理に属し次て府立となる、青淵先生が本校に関係を有するに至りしは此時に始まる、爾来先生は商法講習所委員として、益田孝氏故福地源一郎氏等と共に経営の任に当りしが、同十四年七月府会は経費の支出を拒み、講習所は為めに閉鎖するに至りしかは、所長故矢野次郎翁及先生等大に之を憂慮し、遂に其尽力により同年九月に至り、府庁をして農商務省に稟請して其補助を仰かしめ復ひ之を興すに至りしも、而も補助金其他資金の不足なる、到底校運の発展を期する能はさるを見るや、先生は率先有志を勧誘し、商業教育の急を唱へて同志を募り、互に醵金して当講習所維持の資に充てしめたり、斯くて基礎漸く立つや、明治十七年農商務省の直轄官立学校となり東京商業学校と改称し、先生及益田孝、富田鉄之助の諸氏商議委員に嘱托せらる、翌十八年文部省の直轄となり高等商業学校と改め、明治三十五年更に現在の名称に改む、当校は創立以来卒業生を出すこと既に弐千七百有余人にして、商工界を始め各般の方面に於て、是等諸氏が重鎮となり、活動しつつあるは慶賀すへきことと云ふへし、而して先生は引続き今尚商議委員の任にあり、
一 現任役員
   校長事務取扱 沢柳政太郎
   商議委員
    男爵渋沢栄一  益田孝
    園田孝吉  阿部泰蔵
    和田垣謙三  近藤廉平
画像2