"民"の力を結集して震災復興を - 渋沢栄一に学ぶ / 木村昌人

公益財団法人渋沢栄一記念財団 研究部部長

[ はじめに / 1. 震災と向き合う渋沢栄一 / 2. 復興へ向けての"民"の力 - 協調会と大震災善後会 / 3. 米国からの支援 / 4. 東京を軍都から商業都市へ / 5. 「精神の復興」 - 徳のある社会を目指して / 参考文献 ]

○ はじめに

 2011(平成23)年3月11日に東日本を襲ったマグニチュード9.0の大震災は、米ソ冷戦後の漂流し続けた日本社会の行く末だけでなく、人類の生活のありかたを根本から改めさせるほどのショックを全世界に与えました。大地震・大津波・原発損傷による放射能汚染のトリプル・パンチは、日本人が今まで歩んできた道を見直さざるを得ない状況に追い込みました。私たちは、この未曽有の危機を乗り越え、新しい日本社会を創造し、世界に対して貢献することができるかどうかが問われています。

 この課題を克服するのは容易なことではありません。まず政府に多くを期待することは難しいでしょう。1995(平成7)年の阪神大震災の時とは異なり、今回は国家財政に余裕はありません。もちろん復興の大方針は政府が示さなければなりませんが、復興事業を実質的に支えるのは、"民"の力です。公益を追求する強い意志と新しい社会を創造しようという企業家精神を合わせ持った"民"が主役になります。まさしく日本のシヴィル・ソサエティの実力が試される時です。

 このような時、真っ先に思い出されるのが、約90年前の関東大震災で活躍した渋沢栄一です。経済界の重鎮として、長期的かつ国際的な視野から"民"の力を結集し、政府に協力しながら、震災復興に尽力した渋沢栄一のリーダーシップとその活動に学ぶ点は数多くあります。

1.震災と向き合う渋沢栄一

 1923(大正12)年9月1日の正午近くマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。直後に発生した火災と津波などにより約10万人の犠牲者を出し、首都圏は壊滅的な打撃を受けました。渋沢栄一は東京日本橋の事務所で震災に遭い、やっとの思いで、飛鳥山まで戻りました。

 栄一の身を案じて、生家の埼玉へ戻るようにと勧める息子たちを「こういう時には、いささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳が立つようなものだ」と渋沢は叱りつけました。被災民とともに東京にとどまり、大震災がもたらした難局に敢然と立ち向かうことを宣言しました。当時すでに83歳の渋沢は、豊富な経験を生かし、"民"の力を結集して、震災復興に挑戦することになりました。

 渋沢の頭のなかには、瞬時に、被災者の救済と民心の安静のために何をすべきか、首都東京をどのような都市に復興させるか、そのとき民間人はなにをするべきか、さらには復興の精神的支柱をどこにおくか、などいくつかの課題が浮びました。つまり、一刻を争う緊急の課題から、中長期(1年から10年程度)の復興計画までを視野に入れ、行動を開始したのです。彼の対応を震災直後、中期(3カ月から1年)、長期(10年)の3つにわけて見ていきましょう。

 まず震災直後の火災により、事務所と貴重な歴史的資料を焼失した被災者の一人として、渋沢は地震が発生した翌9月2日、内田臨時首相、警視庁、東京府知事、東京市長へ使者を送り、被災者への食糧供給、バラック建設、治安維持に尽くすように注意を与えました。

 同日組閣した山本権兵衛首相は、さっそく戒厳令を敷き、内務大臣に、前東京市長の後藤新平を内務大臣に起用しました。後藤は内閣親任式から戻るとすぐに、大震災復興のための4原則を発表しました。その内容は、1) 遷都は行わない、2) 震災復興のために必要な予算は約30億円、3) 欧米先進国の最新の都市計画を取り入れ、日本にふさわしい新都を造る、4) 新都市計画を実行するにあたり、地主に対しては断固たる態度をとる、という的確で、スケールの大きな方針でした。

 渋沢はその日、自らも食糧確保のために動きました。埼玉県からコメを取り寄せるという提案を受け、私邸近くの滝野川町に依頼し、調達の手配を行い、以後9月12日まで渋沢の私邸が滝野川食糧配給本部となります。

2.復興へ向けての"民"の力 - 協調会と大震災善後会

 政府の体制と震災復興の大方針が固まるのを見て、渋沢は"民"の力を結集し素早く対応するための組織・体制作りを開始します。協調会の活用と大震災善後会の創設です。

 協調会とは、1919(大正8)年に労働者と資本家の融和を図るために設立された組織で、渋沢は副会長を務めていました。ロシア革命後、共産主義への恐怖心も手伝い、当時の日本には労働運動の意義を理解する資本家や経営者はまだ少なかったのです。

 1923(大正12)年9月4日に後藤から協調会副会長として呼び出された渋沢は、被災民の救護、経済対策(モラトリアム・暴利取締・火災保険支払い等)について相談を受けると同時に、協調会に復興への全面的な協力を求められました。後藤は労働者と資本家双方に影響力のある協調会を活用して、救済事業を進めようと考えたわけです。

 後藤から打診された渋沢はその場で協力を承諾し、翌9月5日には協調会で、実行部隊となる添田敬一郎、田沢義鋪らと救済事業の進め方について相談しました。9月8日には協調会緊急理事会を開催し、震災善後策への承認を取り付け、以後、罹災者収容、炊き出し、災害情報版の設置、臨時病院の確保など"官"ではなかなか手が回らないきめ細かい対策を迅速に実行していくことになります。

 次に渋沢は、救済事業資金調達のため、山科礼蔵、服部金太郎ら実業家有志と相談し、組織作りを始めました。9月9日、無傷のまま残った東京商業会議所(現在の東京商工会議所)に集まった約40名の実業家に対し、座長の渋沢は、"民"の立場から救護と復興に関する組織を立ち上げることを提案しました。9月11日には貴族院・衆議院議員有志が加わり、大震災善後会が結成されました。事務局は東京商業会議所に設置され、民間による救援活動の拠点としました。

3.米国からの支援

 さらに渋沢は国際社会にも目を向けます。国際的な人脈を活用し、義援金を集め、善後会の活動資金を集めることにしました。渋沢が期待したのは米国実業家でした。1902(明治35)年以来4度にわたり渡米し、全米主要都市をすべて訪問した渋沢栄一には、各地に多くの友人がいました。また1906(明治39)年のサンフランシスコ大地震の際には、先頭に立って義援金を集め、世界中で最も多額の義援金を日本から米国へ送ることができ、大変感謝されました。

 排日移民問題、日米船鉄交換条約交渉など日米間に横たわる厄介な懸案についても渋沢はねばり強く民間外交を続け、両国の関係悪化を防ぎ、米国から「日本のグランド・オールドマン」と呼ばれ、絶大な信用を勝ち得ていました。関東大震災が発生した時の日米関係は良好で、経済関係はますます拡大し、経済界の人的ネットワークも政治家、知識人らをまきこむ重層的な広がりを見せていたのです。

 1923(大正12)年9月11日、大震災善後会の副会長に就いた渋沢は、自ら5万円の寄付を行うと同時に、米国の知人24名に大震災の状況を知らせる手紙を送り、9月13日には援助依頼の電報を打ちました。大震災発生のニュースが全米を駆け巡り、鉄鋼王ゲーリー、銀行家ヴァンダーリップ、材木商クラークなど米国の錚々たる実業家が、心温まる見舞いと激励のメッセージを日本の各方面や渋沢へ送ると同時に、大がかりな義援金募集を開始しました。

 その結果、予想をはるかに上回る巨額の義援金や大量の救援物資が届けられました。渋沢ら実業家の長年にわたる対米民間経済外交がその成果を発揮したといえましょう。特にサンフランシスコを中心とする太平洋岸諸都市の実業家は労を惜しまず、協力しました。11月28日には、旧知のクラーク、グリックスら同地域の実業家が大洋丸にて来日し、渋沢を激励したほどでした。

 こうして、協調会による救援活動の資金を"民"の力で調達し、国際的なモラル・サポートを得た渋沢栄一は、東京市内各地を慰問し、現場のきめ細かいニーズを集めながら、救済復興事業の促進に席を温める間もなく活動しました。とても83歳とは思えぬ行動力でした。

4.東京を軍都から商業都市へ

 一方で渋沢は、首都東京をどのような都市として復興させるかという中長期の課題に取り組みます。9月19日、山本内閣から帝都復興審議会の委員を命じられました。1874(明治7)年以来、東京会議所会頭として、道路補修、養育院設置等、東京の近代化に深くかかわり、東京の復興には彼独自のヴィジョンを持っていました。

 渋沢は東京を、徳川時代からの江戸城を中心する軍都から、近代日本を支える経済の中心としての商業機能を重視した都市に再生しようと考えていました。震災復興は、長年の夢を実現する機会ととらえ、渋沢は「政府には入らない」という主義を曲げて、あえて政府委員を引き受けたのです。

 審議会で渋沢は、東京湾築港と京浜運河の採用を提案し、商業都市として東京を復興させようとしました。彼の提案は、復興予算の縮小と伊藤巳代治などの反対などにより、このときは実現しませんでした。しかし現在の東京は、まさしく渋沢の夢見た商業都市として、世界に誇る首都圏に成長しています。また東京港も拡大の一途を遂げているのです。

5.「精神の復興」 - 徳のある社会を目指して

人々が平和な生活を取り戻すためには、「物質の復興」の根底にある「精神の復興」が不可欠であると渋沢は考えていました。幼少期から論語を人生の指針としてきた渋沢は、大正時代に入り、しきりに「道徳経済合一説」や「論語と算盤」の精神を唱えています。急速な近代化と第一次世界大戦中に発生したバブル景気の影響で、仁義道徳がすたれたと感じた渋沢は、政争に明け暮れる政治家や公益を忘れ、私利私欲に走る実業家を強く戒めていたのです。

 渋沢は関東大震災を天が譴わした罰ととらえ、近代化の一翼を担った自らも含めて、日本のリーダーを戒め、危機を克服するための精神論を説きました。震災復興の長期的な目標は、徳のある社会を作り出すことであり、物質と精神の復興がなされてこそ、人々が安心して日常生活を送ることのできる社会になると考えたわけです。

 こうしてみると、関東大震災からの復興での渋沢栄一のリーダーシップとその活動は、明治初年以来、「官尊民卑の打破」を掲げ、470近くの企業の設立に関与し、経済界の地位向上に努めた彼を支えた「論語と算盤」の精神(道徳と経済の両立)と合本(がっぽん)主義(公益を追求し、事業を遂行するために、最も適した人・モノ・カネ・情報を幅広く集め、組織化する)の方法にのっとっていたことがよくわかります。

 また「大風呂敷」といわれながらも合理的な精神とすぐれたヴィジョンと技術に裏付けられた壮大な構想を提示した"官"後藤新平と、「大風呂敷」のほつれを素早く、かつきめ細かく繕うことのできた"民"渋沢栄一とのコンビは絶妙であったといえるでしょう。

 今回の東日本大震災からの復興においては、経済界や民間財団が"民"の力を結集して、次々とヴィジョンやアイデアを提案し、政府を後押ししながら、自らが新しい日本を築くという強い責任感を持って行動することが必要です。それが関東大震災後の渋沢栄一から学ぶ最大の教訓ではないでしょうか。

2011年4月11日

<参考文献>

この記事は、公益財団法人公益法人協会発行のメールマガジン『公法協メール通信』2011年4月11日送信号に掲載されたものを一部編集し、転載したものです。転載をご許可いただいた公益財団法人公益法人協会様には厚く御礼申し上げます。

掲載日 2011年5月16日