財団法人 渋沢栄一記念財団 : 実業史研究情報センター
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会社名(被伝者) 社史名 出版年 会社情報&社史メモ
(株)青森銀行 青森銀行史 1968 青森県では明治以降小野組から三井組が公金を扱っていた。旧弘前藩士らは禄券保全の銀行を発起し、渋沢栄一の勧奨により1878年(明11)第五十九国立銀行を創立。また地元資本の金融機関も漸次設立され、経済発展と共に躍進する。1943年(昭18)戦時下の金融統制のもと銀行合同が勧奨され、青森県では第五十九銀行を中心に八戸銀行、津軽銀行、板柳銀行、青森銀行(旧)の5行が合同し、青森銀行(新)が創設された。本社史第1部は研究者の執筆で明治以降の青森県の銀行業生成と発展を記述。第2部が新立の青森銀行の20年史、第3部で県内44行および県外16行の県内支店の沿革に触れ、付編で青森銀行の現況を紹介。
(株)秋田銀行 創立三十周年記念誌 1926 1895年に第一国立銀行秋田支店の廃止決定を受け、翌1896年同支店の営業部門を譲り受け秋田県内の有力者が協同して設立。30周年を記念して出された社史は小冊子ながら写真入で上質の装丁。[渋沢栄一は相談役(1897)]
秋田銀行百年史 1979 1879年秋田に創立された第四十八国立銀行と、1896年第一国立銀行秋田支店の営業部門を譲り受けて創立された旧秋田銀行、1897年創立の湯沢銀行の3行が、1941年戦時統制により合併して新たに設立。百年史は1879年からの歩みを節目ごとの10章に分け編集。合併した多くの銀行の小史も含む。旧秋田銀行ほか県内6行は第一国立銀行秋田支店の廃止に際し、県内産業の開発振興に尽くしたとして、第一銀行頭取渋沢栄一あての感謝状を出しており、それに対する栄一の礼状も社史に載っている。
秋田銀行110年のあゆみ 1990 「百年史」の後を受け、「110年史」は最近10年の歩みに焦点を当てた小冊子。
曙ブレーキ工業(株) 半世紀の歩み 1979 岡山出身で同志社に学んだ納三治(おさめ・さんじ、1873-?)は、米国留学後自動車のブレーキライニング(摩擦材)製造の将来性に着目。1929年(昭4)東京に曙石綿工業所を設立、曙は故郷の景色から、社章は同志社の許可を得て校章と同じ三稜とした。外国車だけでなく国産車にも部品供給し1936年(昭11)株式会社に改組。戦時中は軍需物資供給元として業績拡大。戦後米国ベンディックス社との技術提携を機に1960年(昭35)曙ブレーキ工業と改称。自動車だけでなく鉄道車輛や産業機械用の総合ブレーキメーカーとして、時代の要請に応える。50年史は巻頭グラビアに各種交通機関とブレーキの発達史を載せ、本文は沿革編と部門別の技術編、資料、年表で構成。
浅野セメント(株) 浅野セメント沿革史 1940 1848年富山生まれの浅野総一郎は横浜で石炭売買に成功、王子の抄紙部へ石炭を納めたことから渋沢栄一に見出される。コークス納入先の深川の官営セメント工場を、栄一の紹介で1883年払下を受ける。栄一は出資者、監査役(1898-1909)。1930年総一郎没後浅野泰治郎が社長を継ぎ、総一郎と改名。沿革史は第1部は本邦セメント工業発祥の事情から1939年までの主要史実を編年体で記述。第2部は各工場や支店営業所の沿革・現況、商標などを横断的に記述。[1947年日本セメントに社名変更、1998年秩父セメントと合併]
(株)浅野造船所 我社の生立 1935 1896年(明29)東洋汽船を設立した浅野総一郎(あさの・そういちろう、1848-1930)は、自ら手掛けた東京湾大規模埋立事業地に造船所設立を計画。当初は横浜造船所として1916年(大5)創立し、同年浅野造船所と改称。造船工事に着手し第一次大戦による船舶需要に応じる。1918年(大7)浅野製鉄所を合併し製鉄業を始め、船渠も築造し船舶修繕業にも事業を広げる。創立から20年を経て編纂された社史は、創立の経緯と現況を8章に分けて元役員が執筆し、浅野総一郎が関わった幅広い事業の流れを概観している。[1936年(昭11)鶴見製鉄造船と改称、1940年(昭15)日本鋼管に合併]
旭化成(株) 旭化成八十年史 2002 1922年レーヨンの製造を目的に設立された旭絹織と、日本窒素肥料による我が国最初のアンモニア合成工場の2つが出発点。1933年に旭ベンベルグ絹糸として統合、1946年から旭化成となる。創業者野口遵は技師として水力発電に関わり、ジーメンス社で経験をつむ。欧米に伍して近代化学工業を発展させ、現在は繊維、ケミカル、住宅・建材、エレクトロニクス、医薬・医療、酒類等と多角化経営。別冊資料編あり。
旭硝子(株) 社史 1967 我が国の窓ガラス製造業は1900年頃には企業化が試みられたがいずれも頓挫していた。岩崎弥之助の次男俊弥は国産窓ガラスの製造を志し、1907年兵庫県尼崎に旭硝子(株)を設立、社長となる。社名は弥之助の発案、社章は岩崎家の家紋菱印を図案化したもの。板ガラス、その原料のソーダ、耐火炉材の3事業の国産化を図る。1944年日本化成工業と合併し三菱化成工業(株)となるが、戦後財閥解体により1950年旭硝子(株)として再発足。社史は設立から1966年までの60年史で、編年体の総合史と事業ごとの部門史からなる。
朝日生命保険(相) 朝日生命八十年史 : 1888-1968 1968 海軍会計学舎で英国の経済学等を学んだ加唐為重(かから・ためしげ、1855-1892)は、英国を発祥とする科学的生命保険理論に基づく生命保険会社設立に奔走、福原有信(ふくはら・ありのぶ、1848-1924)らを創立委員に1888年(明21)帝国生命保険(株)を創業した。福原は設立前に、渋沢栄一ら財界人とも交際のある海軍軍医総監高木兼寛(たかき・かねひろ、1849-1920)に、生命保険会社設立の計画を相談、全面的な支援の約束を得る。1910年(明43)経営権安定のため大株主として古河家が加わる。第二次大戦後の再建整備のため1947年(昭22)第二会社の帝国生命保険(相)を設立、すぐに朝日生命保険(相)と改称。80年史では前半で帝国生命60年、後半で朝日生命20年を記載している。[別冊の資料編(1969年刊)あり]
アサヒビール(株) Asahi 100 1990 明治初期、輸入ビールに対抗して近畿財界、醸造界の有力者が集まり、1889年有限責任大阪麦酒会社を設立。1892年「アサヒビール」初出荷。1906年札幌麦酒、日本麦酒と合併し、大日本麦酒(株)設立。戦後分割され1949年朝日麦酒(株)発足。1989年アサヒビール(株)に社名変更。100年史は現況、沿革、広告、技術、資料編の章立てで、本文中に豊富な図版が含まれている。
味の素(株) 味の素沿革史 1951 1907年(明40)設立の鈴木製薬所でヨード等を製造していた[2代]鈴木三郎助(すずき・さぶろうすけ、1867-1931)は、昆布から抽出したうま味で特許を得た池田菊苗(いけだ・きくなえ、1864-1936)博士と協力し工業化を図る。1908年(明41)商品名を味の素とし、翌年発売開始。各地に代理店を置き、1912年(大1)合資会社鈴木商店と改称。商品開発を進め販売体制も拡充し、1917年(大6)株式会社に改組。国外にも販路を開くが戦時中は一時生産を中断。戦後再び生産開始し、1946年(昭21)味の素(株)と改称して資本金を増強し発展する。工業化着手から40年に当たって編纂した社史は、調味料と文化から書き起こした沿革と記録を1-2章に、海外発展史や部門史を3-7章にまとめ、回顧録を最後に付している。広告宣伝物や製造工程図等を本文中に取り入れた編集。[鈴木三郎助は渋沢栄一らが発起した日本化学工業(株)の専務を務めた]
芦森工業(株) 芦森工業創立二十五年史 1964 大阪の芦森武兵衛は1878年綿麻問屋を開業。紡績機械付属品ロープの将来性に目をつけ、製造を始める。1894年芦森製綱所発足、工場を拡張し増産の結果、紡績用ロープは輸入から輸出に転じる。1935年(株)芦森製綱所となり、戦争末期は東洋紡績(株)の傘下に入り軍需品も生産、1944年社名を芦森工業(株)と変更。戦後は民需に転換し新製品開発を進め、消防用ジェットホースは世界各国へ輸出し、わが国屈指のロープメーカーとなる。25年史は個人経営の時代も含めながら簡潔に編集されている。
麻生セメント(株) 麻生百年史 1975 筑前の庄屋の息子麻生太吉は1872年石炭採掘事業に着手。1881年嘉麻社を設立、次々と業容を拡大し、筑豊有数の炭鉱主として産業基盤づくりをはかる。銀行・電力・鉄道事業から医療関連事業にも発展。太吉没後1934年に孫の太賀吉が(株)麻生商店と産業セメント鉄道(株)の社長に就任。石炭からセメント事業へ重心を移し、1966年麻生セメント(株)発足、麻生グループは40社に及ぶ。1973年から社長に麻生太郎就任。百年史は本史の他、多くの寄稿文に加え膨大な資料を1冊にまとめた1500頁を超える大作。
安宅産業(株) 安宅産業六十年史 1968 金沢出身の安宅弥吉(あたか・やきち、1873-1949)は東京高商(現一橋大)卒業後外国貿易を志し、1895年(明28)日下部商店入店、砂糖取引に携わる。1904年(明37)大阪に安宅商会を創業、香港に支店を置き世界各地と多品目の貿易を行う。1908年(明41)の銃器貿易に関わる辰丸事件、翌年の砂糖取引に関わる日糖事件も克服、信用を重ねて発展し1919年(大8)株式会社へ改組。戦時下1943年(昭18)安宅産業と改称、戦後再建を果たし総合商社として発展する。60年史は創業時からの沿革と現況をそれぞれの社会状況と共に記し、海外支店の変遷も掲載している。[1977年(昭52)伊藤忠商事に吸収合併。東洋陶磁器の安宅コレクションは大阪市に寄贈され大阪市立東洋陶磁美術館となる]
尼崎築港(株) 尼崎築港70年史 1999 渋沢栄一の援助で実業家として活躍していた浅野総一郎(あさの・そういちろう、1843-1930)は、欧米視察から近代的港湾設備の整備を痛感し、鶴見・川崎に大規模な臨界工業地帯を造成。続いて大阪湾に面した尼崎に臨海工業地帯を造成することを目的として、1929年(昭4)尼崎築港を設立。これは一万トン級の外航船舶の停泊できる港を民間の力で建設し、わが国産業の発展に寄与しようとするものであった。第二次大戦後埋立事業は公営化されて事業全体を失ったが、埋立造成地の一部を所有し、土地・建物などの賃貸業を主な事業として再生した。70年史は創業者浅野総一郎の経歴と尼崎の沿革を「創立前史」として詳述し、創立以来の経営の軌道を時代の動向と共に記述している。[現在の英文社名: Amachiku Co., Ltd.]
荒川林産化学工業(株) 荒川林産百年史 : 松脂と共に 1977 大阪出身の荒川政七(あらかわ・まさひち、1825-1904)は薬問屋に奉公の後1856年(安政3)和薬商の玉屋を開業、1876年(明9)荒川政七商店と改称。松脂を必要とする製紙産業の興隆や、農薬・塗料用などの需要増に伴い、取扱い品目が次第に松脂中心となる。品質向上に努め1920年(大9)頃からは「松脂の荒川」として業界に知られる。1943年(昭18)荒川林産化学と改称、第二次大戦後は製紙業界向けにインキのにじみを止める強化サイズ剤を提供し好評を得る。100年史は歴代経営者の時代ごとに沿革をまとめ、「日本松脂産業小史」にも多くの頁を割いている。[1977年(昭52)荒川化学工業と改称。100年史は日本経営史研究所主催第1回優秀会社史賞特別賞を受賞している]
石川島重工業(株) 石川島重工業株式会社108年史 1961 1853年水戸藩により石川島造船所が設立されてから、1960年播磨重工業と合併するまでの108年間の社史。現況編、沿革史編、技術発展史編、諸表からなる。現況編を含む冒頭のグラビアは170ページにわたり製品を紹介。沿革編では航空機制作に進出して設立した(株)石川島飛行機(初代社長渋沢正男、2代社長渋沢武之助)などにもふれる。序文は土光敏夫、監修は土屋喬雄。
石川島播磨重工業(株) 石川島播磨重工業社史 1992 1853年ペリーが来航し、幕府は海防に狂奔。大船建造を命じられた水戸藩は隅田川河口の石川島に造船所を建設、12月に石川島造船所が創設された。その後石川島平野造船所を経て、渋沢栄一らが出資し1889年有限責任石川島造船所が設立される。1907年設立の播磨造船所と1960年に合併して石川島播磨重工業(株)となる。陸海空に渡って技術の蓄積を図り、総合重工業企業に成長。本編「沿革・資料編」と別冊「技術・製品編」あり。
石川島播磨重工業(株)技術研究所 石川島播磨重工業技術研究所史:1951年~1999年 2001 石川島重工業が1951年土光敏夫社長時代に技術研究所を設立。1960年の合併に伴い播磨造船所研究部を統合。1999年に基盤技術研究所と機械・プラント開発センターに分離・改組されるまでの研究所史。沿革編、技術編、資料編からなる。
(株)いすゞカーライフ いすゞカーライフの30年 1991 朝鮮戦争需要を契機に自動車の供給台数が増加。いすゞ自動車(株)では需要増加した自動車補修用部品の純正品を販売推進する為、それまで部品特約販売店として指定していた折橋商事、帝国部品、親和興業の3社との共同出資で、1958年(昭33)協同産業(株)を設立。高度経済成長期に国内外へ発展する。1984年(昭59)社名を(株)いすゞカーライフに変更。30年史では序章の創立前史で戦後の復興と自動車産業、いすゞ自動車と部品流通事情に触れ、前身3社の略史も記載。コラム記事をはさむハンディな体裁で、巻末索引付。[1994年(平6)社名を(株)アイ・シー・エルに変更]
いすゞ自動車(株) いすゞ自動車史 1957 (株)東京石川島造船所自動車部では1922年(大11)ウーズレーA9型国産第1号乗用車を完成させ、1929年(昭4)(株)石川島自動車製作所として独立。初代社長は渋沢正雄(しぶさわ・まさお、1888-1942)。1933年(昭8)ダット自動車製造を合併して自動車工業(株)と改称。この時期から製品の自動車の名称に、伊勢の五十鈴川に因んだ「いすゞ」を採用。自動車製造を企画していた東京瓦斯電気工業(株)との合併で1937年(昭12)東京自動車工業(株)を創立、1941年(昭16)にヂーゼル自動車工業(株)と改称。1949年(昭24)再建整備の過程でいすゞ自動車(株)に社名変更する。当社史では第1部が石川島自動車製作所創業時からヂーゼル自動車工業まで、第2部が戦後の復興といすゞ自動車の発展の軌跡。本文中に製品写真等を多数掲載している。
(株)伊勢丹 伊勢丹百年史 : 三代小菅丹治の足跡をたどって 1990 相模出身で東京湯島の呉服店に奉公していた初代小菅丹治(こすげ・たんじ、1859-1916)は、1886年(明19)神田に伊勢屋丹治呉服店を創業。創意工夫を重ね「帯の伊勢丹」の評判をかち得、1907年(明40)商号を伊勢丹呉服店に改称。関東大震災で被災するが、呉服店から百貨店化を目指し1930年(昭5)(株)伊勢丹設立。1933年(昭8)には有望な商圏の新宿へ進出する。戦後は駐留軍による接収を経て、近代的百貨店として成長する。創業からの100年史は戦後のファッションビジネス形成史を主体とし、これを推進した三代小菅丹治(1918-1984)のリーダーシップを軸に写真を多用して記述。資料編には新宿店の増築工事やフロア構成の変遷が掲載されている。[2008年(平20)三越と共に三越伊勢丹ホールディングスを設立し、その子会社となる]
(株)伊丹製絨所 伊丹製絨所十年誌 1933 福井出身の谷江長は日本毛織(株)へ入り、1902年欧州へ派遣され英国の毛織工場で学ぶ。帰国後設備・製絨法を改良し多大の功績をあげ役員となる。しかし細番手の毛糸や高級服地はまだ輸入品に及ばなかったので、新たに伊丹に工場を建て資本を募り、1922年(株)伊丹製絨所設立。関東大震災後の混乱や豪州羊毛相場暴落などを経ながらも高級品を生産、業績を伸ばす。10年史は写真を多く取り入れた立派な装丁。[1941年東洋紡績(株)と合併]
伊藤忠商事(株) 伊藤忠商事100年 1969 近江の繊維商初代伊藤忠兵衛(いとう・ちゅうべえ、1842-1903)は1858年(安政5)から近江麻布の行商を始め、1872年(明5)大阪に呉服太物商の紅忠(1884年(明17)伊藤本店と改称)、1893年(明26)に綿糸卸商の伊藤糸店を開店、日清戦後の活況期に東京や海外へ進出。2代忠兵衛(1886-1973)は英国留学後経営改革を行い、1918年(大7)伊藤忠商事設立。第二次大戦時に丸紅商店他との合併により三興、大建産業となるが、1949年(昭24)分割により伊藤忠商事が再発足、総合商社として発展する。100年史の編集には2代忠兵衛が直接関わり、記述には事務能率向上のため社内で使用していた当用漢字・新仮名遣い・カタカナ表記を採用。
(株)伊東屋 銀座伊東屋百年史 : one hundred years in stationery 2004 東京・銀座生まれの伊藤勝太郎(いとう・かつたろう、1875-1964)は築地居留地で英語を学び西欧文明に触れる。1901年(明34)帝国博品館の勧工場(かんこうば)に洋品小間物店を出店、1904年(明37)には和漢洋文房具店の伊東屋を銀座通りに開業。一般事務の主流は明治後期でも大福帳に算盤であったが、勝太郎は洋帳簿を伊東屋オリジナルとして考案、製造販売した。1910年(明43)の営業品目録には洋式帳簿80種以上を掲載している。第二次大戦後は銀座2丁目に移転し、高度経済成長と共に発展する。100年史は沿革のほか鼎談・座談会・写真で見る百年史など様々な角度で文房具販売の歩みを記述している。
(株)イトーキ イト-キのあゆみ : イトーキ80年史 1970 大阪生まれの小野五十三郎(おの・いそさぶろう)は養子縁組で伊藤喜十郎(いとう・きじゅうろう、1855-1936)となり、財界人事務所に勤務していた1890年(明23)、東京で開催された第3回内国勧業博覧会を見学。展示されていた発明特許品を世に広めるための販売店創設を決意、多くの賛同を得て同年大阪に伊藤喜商店を開業。看板は渋沢栄一が揮毫。金庫・謄写版・事務用品など多品目を扱い業績を伸ばす。1937年(昭12)東京へ進出、戦後はオフィスシステムの開発を手掛け1963年(昭37)イトーキと改称。80年史には創業の頃の商品写真を種々載せている。
稲畑産業(株) 稲畑八十八年史 : 1890~1978 1978 京都生まれの稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう、1862-1949)は師範学校からフランスへ留学、8年間染色を学び1885年(明18)帰国し京都府に奉職。渋沢栄一発起の京都織物へ入社し染色技師長として重責を果たすが、1890年(明23)退職し京都に稲畑染料店を設立。フランスから材料と機械を輸入、東京・天津にも支店を設け業容を拡大し、1943年(昭18)稲畑産業と社名変更。勝太郎は1926年(昭1)渋沢栄一が相談役を務めた日本染料製造の社長に就任。日本染料製造が住友化学工業と合併後、稲畑産業は住友化学工業の染料・化学・医薬品の特約販売店となる。88年史は写真・図版を数多く取り入れ「見る社史」として編集。
今治造船(株) 今治造船史 1977 瀬戸内、来島海峡に面した波止浜湾(現・今治市)は南北朝の頃より造船業が発達していた。檜垣正一(ひがき・しょういち、1901-)は父が1901年(明34)に波止浜に興した檜垣造船所で修業。1924年(大13)独立し自営、1940年(昭15)には今治造船(有)を設立。同年今治の有力者により設立された今治船渠(株)と1943年(昭18)合併し、今治造船(株)を設立した。木造船から鋼造船、内航船、近海船、さらに大型遠洋船を手掛け急成長する。1970年(昭45)には丸亀に進出。当社史は檜垣造船所創業からの沿革や檜垣一族の足跡をジャーナリストが執筆し、郷土史のコラムも掲載。建造船はじめ多くの写真付。
岩井産業(株) 岩井百年史 1964 京都出身の岩井文助は大阪の加賀屋に奉公、1862年独立して雑貨商を開業し、貿易商として発展する。養子の勝次郎は1896年独立、欧米を視察して本格的貿易業を開始、1912年(株)岩井商店となり業容を拡大する。戦時下1943年岩井産業(株)と改称、終戦後は総合商社として発展する。百年史は「岩井家家憲」等の文書資料も含み、索引付。[1968年日商と合併し日商岩井(株)となる]
(株)岩波書店 岩波書店五十年 1963 神田女学校・東京女子体操音楽学校の教師岩波茂雄(いわなみ・しげお、1881-1946)は、本の買手としての経験から誠実な古書店経営を目指し、1913年(大2)退職して神田に岩波書店を創業開店。新刊書・雑誌も扱い正札販売を貫き、定価販売の習慣を作る。1914年(大3)夏目漱石の『こゝろ』上梓を機に出版が主業務となる。以来1963年(昭38)8月までの総刊行点数は9,447点にのぼる。1949年(昭24)株式会社に改組。50年史は刊行全図書を年代順に配列した図書年譜と著作者別書目索引からなり、自社の沿革は図書年譜に付した岩波書店関係年表に記載。年譜の10年ごとに在籍者と退店者の一覧を掲載し、個人全集・講座・辞典類・発行雑誌等の一覧を付録に載せている。
宇治川電気(株) 宇治電之回顧 1942 日本初の水力発電所である南禅寺発電所建設をきっかけに、京都の宇治水電、東京の宇治川電力、滋賀の琵琶湖運河の3社が琵琶湖の水源開発を巡って競願。内務省方針のもと合同し、1906年(明39)設立されたのが宇治川電気である。宇治発電所竣工以後、近畿地方へ電力供給を行う一方、近江鉄道などの電気鉄道業にも注力した。1942年(昭17)、配電統制令に基き関西配電に統合され解散。当社史は解散時の取締役会長林安繁(はやし・やすしげ、1876-?)による著作で、歴代役員の功績にもふれ、宇治川の錦絵入り。[関西配電は戦後再編により1951年(昭26)関西電力となる。宇治発電所は関西電力宇治発電所として現在も使用されている]
浦賀船渠(株) 浦賀船渠六十年史 1957 1853年ペリーが浦賀沖に来航、衝撃を受けた幕府は浦賀に造船所開設。軍艦で来所していた榎本武陽らは後に船渠会社設立に奔走し、浅野総一郎等の賛同を得て1897年浦賀船渠(株)設立。1902年東京石川島造船所の浦賀分工場を買収した時から渋沢栄一との関係が強まり、同年経営不振に陥った際栄一の尽力で再建する。60年史は創業前後から太平洋戦争後の復興発展期までを年代を追って記述。50年史編集のために戦前から収集した資料を元に社内で執筆。
栄養食(株) 会社五十年の歩み 1989 冷凍魚を扱っていた関法之(1905?-)が職場の集団給食を専門に請け負う目的で、1938年(昭13)栄養食会社を設立。軍需工場の増加に伴い全国の食堂の委託経営を引受ける。戦後休業していたが1949年(昭24)ごろから再出発の準備にかかり、翌年社員食堂の請負を始める。縁のある渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう、1896-1963)の計らいもあり漸次発展する。50年史は創業者の弟で現会長関誠三郎(せき・せいざぶろう、1911-)の執筆。第1部は設立から第2次大戦終了まで、第2部は戦後の再出発と会社の現況、第3部は著者自身の経営哲学で、渋沢栄一の訓言にも触れる。[関兄弟の祖父関直之は渋沢家洲崎養魚場管理人で、後に洲崎養魚を設立した]
(株)江木写真店 ; (株)五十嵐写真店 江木五十嵐写真店百年の歩み 1985 福山藩士の学者の家に育った江木保男(えぎ・やすお、1856-1898)は写真術に注目し、弟の松四郎をアメリカへ留学させ技術を習得、1884年(明17)東京神田に江木写真店を創設。1889年(明22)には新橋に支店を開設、華族や政財界人で繁盛する。1943年(昭18)に軍部の圧力で解散したが、直後の1944年(昭19)、かつて江木写真店の技術者であり経営にも参加していた五十嵐与七(1885-1967)らが五十嵐写真店を設立し、伝統を継承。1963年(昭38)株式会社となり、都内のホテル、結婚式場などで写真店を展開する。100年史は両社の沿革を通して扱い、技術の変化や顧客の著名人のエピソードを随筆風に記述。また渋沢栄一を含む多くの内外要人の写真、五十嵐与七への追悼文、五十嵐与七の遺稿などを収録し、栄一とオリエンタル写真工業との関連にも触れている。
遠州鉄道(株) 遠州鉄道40年史 1983 1889年(明22)の東海道線開通以来、浜松は近代産業が次々発展していた。甲州財閥の雨宮敬次郎(あめみや・けいじろう、1846-1911)は地元財界人と共に浜松鉄道を発起。他に敷設の7社を合同し1909年(明42)大日本軌道(株)を設立、浜松鉄道はその浜松支社(後の遠州電気鉄道)とした。一方浜名郡と引佐郡の有志は1912年(大1)浜松軽便鉄道(後の浜松鉄道)を設立、2年後に開業。第二次大戦下の政策により遠州電気鉄道と県内バス事業者は統合し、1943年(昭18)遠州鉄道が設立。終戦後1947年(昭22)浜松鉄道を合併し、遠州鉄道は地域の民営交通機関として発達する。40年史は第1部前史に合併以前の鉄道とバス事業のあゆみを記載、第2部に設立以来の沿革を述べる。
王子製紙(株) 王子製紙社史. 第1-4巻, 附録篇 1956-1959 渋沢栄一らの尽力で1872年(明5)設立出願、翌年創業した抄紙会社は後に王子製紙となり、当初より近代製紙技術を採り入れ発展。1933年(昭8)富士製紙、樺太工業を合併し、生産量は国全体の8割を占めるまでに成長する。戦後1949年(昭24)過度経済力集中排除法の適用により苫小牧製紙、十条製紙、本州製紙の3社に分割される。創業から分割までの歩みを記した社史は全4巻と附録篇からなる。第1巻は創業から日清戦争まで、第2巻は日露戦争前後、第3巻は大正期から昭和前期、第4巻は太平洋戦争前後、附録篇には明治期創業の製紙会社21社の小史、紙業年表、紙業統計を掲載。各巻に詳細な写真目録と人名索引付。[著者成田潔英(なりた・きよふさ、1884-1979)は王子製紙元社員で紙の博物館初代館長]
王子製紙解体余聞 1958 第二次大戦後1949年(昭24)王子製紙が解体された経緯を、同社社長中島慶次(なかじま・けいじ、1894-1973)らに経済誌記者薬袋進(みない・すすむ)が取材してまとめた著作。トピックごとの25章からなり、当初GHQが要求した9分割案を最終的に3分割にとどめた会社首脳陣の働きを記録した。『日刊東洋経済』での連載を本にしたもので、王子製紙元社長藤原銀次郎(ふじわら・ぎんじろう、1869-1960)と前首相で東洋経済新報社元社長石橋湛山(いしばし・たんざん、1884-1973)が序文を寄せている。巻末追録に解体経緯を記した王子製紙文献管理委員会記録と、抄紙会社から解体に至る王子製紙の系譜概要と図を掲載。
王子製紙南方事業史 1964 1933年(昭8)の合併で国内最大の製紙会社となった王子製紙は、1941年(昭16)太平洋戦争勃発後に軍部の要請で南方地域へ進出。マレー半島、スマトラ、ジャワ、フィリピン、ニューギニア等の地域に工場を建設し、抄紙機械と技術者・工員計400名以上を送り込む。現地人も採用し現地の木材で生産開始するが、1945年(昭20)の敗戦で全ての工場を喪失する。南方事業史は各地に派遣された社員約40名から原稿を集め、7つの地域ごとに工場建設から帰還までの状況をまとめたもの。本文中に派遣された人々や現地の写真を取り込み、巻末に人名索引付。
王子製紙山林事業史 1976 明治初頭より製紙業を経営した旧王子製紙の山林事業を体系的にまとめたもの。原料の調達と製造からなる製紙事業のうち、森林資源を原料として供給していく山林事業の発展が、安定経営に不可欠であった。本書は第1部総説で本州から北海道、樺太はじめ海外に広がった旧王子製紙の山林事業を地域ごとに概観した上で、業務機構の変遷を記述。第2部各説では会社の創設期、成立期、発展期、合併期、戦後の1949年(昭24)旧王子製紙解体までと時代順に事業の推移を記述し、最後に伐採と並行して行ってきた造林事業に触れる。戦後の解体で発足した王子製紙、十条製紙、本州製紙3社の共同編集で、巻末に編集委員会、共同執筆者、資料提供者・協力者名を掲載。
王子製紙社史 : 戦後三十年の歩み 1982 敗戦後占領政策により1949年(昭24)旧王子製紙は3社に分割される。その中の苫小牧製紙は、新聞用紙の単一品種生産ながら最大規模であった苫小牧工場を引き継ぎ発足。旧王子製紙の伝統を継承し、1952年(昭27)王子製紙工業、1960年(昭35)王子製紙と改称。外地引揚者の受入や大規模労働争議等の問題を克服し、全国に工場を建設。海外にも進出して業界首位の製紙会社に発展する。苫小牧製紙発足からの30年史は6編に渡って沿革を詳述し、巻末に資料編を付す。『王子製紙社史』(1956-59)と同様の装丁。[1993年(平5)神崎製紙を合併し、新王子製紙(株)となる]
王子製紙社史. 本編・合併各社編・資料編 2001 1873年(明6)創立の王子製紙は戦後3分割される。苫小牧工場を引き継いで1949年(昭24)発足した苫小牧製紙は、近代化を進め経営環境の変化に対応して発展。王子製紙工業、王子製紙、新王子製紙と変遷後、本州製紙との合併により1996年(平8)三たび王子製紙となる。苫小牧製紙発足から50年を記念して発刊された社史は、本編・合併各社編・資料編の3冊からなる。本編は30年史(1982)以降の20年に重点を置きつつも、創立からの足跡を通史として記述。合併会社編には北日本製紙、日本パルプ工業、東洋パルプ、神崎製紙、本州製紙の各社史及び、本州製紙に合併した5社の社史を収録。資料編には業界統計も含めた各種資料を掲載。[2012年(平24)持株会社制に移行し王子ホールディングス(株)と改称][社史本編は全文がDNP「社史の杜」サイトで公開されている]
王子製紙(株) ; 十条製紙(株) ; 本州製紙(株) 製紙業の100年 : 紙の文化と産業 1973 紙幣類や新聞・書籍用の国産洋紙製造のため、渋沢栄一らの尽力で1873年(明6)抄紙会社が誕生。後に王子製紙と改称し近代技術を導入して発展する。本書は創業100年記念に、旧王子製紙が戦後3分割されて誕生した王子製紙(当初は苫小牧製紙)、十条製紙、本州製紙の3社が共同出版したもので、4つの部分からなる。「紙と文化」では紙の役割を歴史的にたどり、「製紙業100年のあゆみ」では明治以降の近代的製紙業の発達と変遷を記述。「製紙業をになった人びと」では製紙業の発展に関わった40人を取り上げ、写真と共に業績を紹介。「現状と将来の展望」と題した座談会では3社社長が忌憚なく論じあっている。巻末に資料付。[王子製紙は新王子製紙と改称後、1996年(平8)本州製紙と合併し再び王子製紙と改称(現・王子ホールディングス)。十条製紙は合併により1993年(平5)日本製紙となる]
王子製紙(株)
苫小牧工場
五十年のあゆみ 一九一〇-一九六〇 1960 王子製紙(株)は1904年(明37)新工場建設地を求めて北海道へ進出、支笏湖周辺に理想的な土地を発見。まず発電所を建設し、1909年(明42)に苫小牧工場建物落成、翌年から操業開始。近代設備で新聞用紙を生産する。50年史は工場施設、原木を切り出す原野、発電所、製品の積出港、工場の様々な出来事や従業員の生活などを写真で綴っている。巻末に年表付。
王子製紙苫小牧工場創業100年のあゆみ 2010 洋紙の国内自給を目指して1910年(明43)操業開始した王子製紙苫小牧工場は、最新鋭の設備導入と技術革新で世界最大の新聞用紙工場として発展する。100年史は操業開始からの歩みを時代順に7章で綴り、多くの図版やエピソードを本文中に取り入れている。巻末に資料付。社史はこれまでに『五十年の歩み』(1960)が出ている。
王子電気軌道(株) 王子電気軌道株式会社二十五年史 1935 東京の都市交通機関創設を目指した松本錬蔵らは1906年(明39)王子を中心に大塚~三輪間の軌道敷設・営業を出願。翌年特許を得るが、日露戦後の不況で資金難に会い渋沢栄一等の後援を得て漸く1910年(明43)王子電気軌道を創立。翌年開業し、沿線と隣接地域への電灯電力供給事業も開始。資金難が続くが事業は漸次進捗し、景気回復と共に増資も行い発展。関東大震災の被災は軽微に収まり、1929年(昭4)乗合自動車業を開始、翌年に電車は三輪早稲田間直通運転を開始する。25年史は創業準備時代からの沿革と、回顧、現状、附録の資料からなる。口絵に役員と停留場等の写真を掲載。[1942年(昭17)東京市営になる(現在の都電荒川線)]
王子油化合成紙(株) 王子油化合成紙30年史 2000 1968年(昭43)政府は森林資源確保を目的に合成紙産業の育成努力を勧告し、紙パルプ・繊維・石油化学業界等に合成紙ブームが起きる。政府勧告よりも前から合成紙開発を進めていた三菱油化樹脂研究所は、勧告に刺激を受けた王子製紙との提携を進め、1969年(昭44)王子油化合成紙研究所が誕生。開発と事業化を進め1970年(昭45)王子油化合成紙(株)を設立。工場を稼働させショッピングバッグやステッカー、地図など水に強い合成紙の特徴を活かした製品を次々生産し、海外にも進出する。30年史は本文用紙に自社製合成紙を使用し、写真・エピソードを随所に取り入れ沿革をまとめている。[2001(平13)ユポ・コーポレーションと社名変更]
近江絹糸紡績(株) オーミケンシ外史 : 五十年のあゆみ 1967 彦根の実業家夏川熊次郎らは琵琶湖の水を利用し郷土の繁栄のため1917年近江絹綿(株)設立。1920年近江絹糸紡績(株)と社名変更し、品質向上、人材育成に努める。戦時下飛行機製作に進出し1943年近江航空工業(株)発足、零式戦闘機を製作。戦後は綿糸紡績に進出、工場を次々新設する。社史は50年の歩みをコンパクトにまとめた小冊子。[1968年オーミケンシ(株)と改称]
(株)大分銀行 大分銀行百年史 1994 農業県大分では明治以降繊維工業を中心に産業が発展、1877年(明10)第二十三国立銀行(後二十三銀行)が商業資本で設立される。商工業の更なる発展と円滑な資金供給のため、大分町の名士らが発起人となり1893年(明26)大分銀行を設立。1927年(昭2)二十三銀行を合併し、商号を大分合同銀行と変更。更に第二次大戦下の銀行合同施策のもと県内20余銀行を合併する。1953年(昭28)大分銀行と改称、現在に至る。100年史は沿革編、営業店小史、資料編からなり、沿革編では創立前史で明治政府の金融政策から記述。既刊の『大分合同銀行五十年史』『大分銀行七十年史』『八十年小史』の3史に諸資料を補足しつつ、最近20年間の動きを加筆している。[渋沢栄一は第二十三国立銀行の設立指導]
大倉博進(株) 創業90年年表 1979 日本橋の出版業者大倉孫兵衛(おおくら・まごべえ、1843-1921)は洋紙需要拡大を見抜き、1889年(明22)大倉孫兵衛洋紙店(後に大倉洋紙店)を開業。一方博文館勤務の山本留次(やまもと・とめじ、1872-1852)は叔父の社長大橋佐平の勧めで独立し、1897年(明30)洋紙販売の博進堂(後に博進社)を創業。両社は時勢に乗って躍進し、業容を広げる。大倉洋紙店は1962年(昭37)名古屋の愛知洋紙店を、1964年(昭和39)横浜の五輪堂洋紙店を合併。1971年(昭46)には業界安定を目指して博進社と合併し、(株)大倉博進が誕生。大倉洋紙店創業からの90年史は、見開き2ページ単位で上部に年表、下部に沿革をまとめ、随所に写真や図表を掲載。[1985年(昭60)大倉紙パルプ商事(株)と改称、その後合併を経て2005年(平17)新生紙パルプ商事(株)となる]
大阪瓦斯(株) 大阪瓦斯五十年史 1955 1871年大阪造幣局で、貨幣鋳造に使う金銀溶解用にガス発生炉が設けられ、余剰ガスを利用して局内外に我が国初のガス灯が点火された。扱いが不便な石油ランプや高価な電灯に対し、低廉安全なガスを供給しようと1897年に松田平八らにより大阪瓦斯(株)設立。大阪市内に白熱ガス灯が点じられた1905年から50年目を記念して刊行された社史。渋沢栄一は1901年2月から翌年7月まで監査役。1945年近畿の14社を併合し、それらの略史も掲載。社史は戦後のあゆみと現状の事業概要に重点が置かれている。
大阪ガス最近の10年:60周年を迎えて 1966 1955年刊行の50年史以降、1966年9月までの10年間に焦点を当てた社史。エネルギー源が石炭から石油へ転換し、需要の増大に伴って設備投資も営業も拡大していく時期が描かれている。
明日へ燃える:大阪ガス80年 1986 1905年の創業から1985年までの80年の歩みを通史として編纂。第1部は創業から1965年までの60年間をエピソードを交えながら述べる。第2部は以降1985年までの20年間に、石油危機を乗り越え、都市ガス燃料としてLNGを選択し事業展開した歩みを詳述。
大阪ガス100年史 2005 1905年の創業からの100年史。後半では既刊の社史に継続して、1991年以降の出来事を詳述している。
大阪商船(株) 大阪商船株式会社五十年史 1934 幕府が神戸・大阪を開港して以来、瀬戸内海の航路は次第に拡張。西南戦争後船舶が供給過剰となり、群小船主間の競争が激烈となる。住友家総理人広瀬宰平(ひろせ・さいへい、1828-1914)らは有志を糾合して1884年(明17)大阪商船会社を開業。日清・日露戦、第一次大戦を契機に世界各地へ航路を広げる。50年史は「沿革・航路・船舶・資本・事務組織・営業所・業績及財産・附録」からなり、渋沢栄一の関わった日清汽船にも触れる。
大阪商船株式会社80年史 1966 1884年(明17)の創業から、1964年(昭39)に海運業の再建整備に関する法律により、三井船舶と合併して大阪商船三井船舶となるまでの80年史。構成は、沿革・航路・船舶・経営資本・組織及び制度・営業所・経理・関係会社・資料及び年表からなり、日本海運史、世界海運史との関連にも注目している。社史編纂のために収集した「航路別港別貨物品別統計表」など主な資料の一覧を編集後記に掲載。
大阪商船三井船舶(株) 創業百年史 1985 1877年、三井物産が三池炭の海外向け輸送を手がける。三井物産船舶部は不定期航路から定期航路へ進出、1942年三井船舶(株)として独立。一方1882年瀬戸内船主の大同団結によって大阪商船会社が設立、沿岸・近海から遠洋航路へ進出。両者は第2次大戦で大きな被害を受けるが、1964年に合併、大阪商船三井船舶(株)となる。別冊資料編あり。[1999年(平11)ナビックスラインと合併し、商船三井となる]
大阪曹達(株) 大曹70年のあゆみ 1986 明治末期に関東州の豊富な塩を原料としたかせいソーダ製造を政府が計画し、水銀法電解ソーダの工業化が図られる。関西財界重鎮の中橋徳五郎(なかはし・とくごろう、1864-1934)を委員長に、かせいソーダの製造販売のため1915年(大4)大阪曹達が創立。第一次大戦中でソーダ類の輸入が不足、ソーダを使用する各種化学工業の急激な興隆もあり事業が発展する。第二次大戦後は水銀公害規制に対応し製法をイオン交換膜法へ転換、有機化学分野にも進出する。70年史は写真を多用し、第1編に近年の躍進、第2編に創業からの回顧、第3編に資料という構成。未完の50年史草稿を土台にしている。[1988年(昭63)ダイソーに社名変更]
大阪紡績(株) 創業二十五年沿革略史 = Brief history of the Osaka Spinning Company Limited 1908 明治以降各地に設立された紡績会社はいずれも小規模で、大規模な紡績会社設立の必要性を強く感じた渋沢栄一は有志と図り、英国留学中の山辺丈夫(やまのべ・たけお、1851-1920)に紡績業の実況研究を要請。紡績技術も学んだ山辺が帰国し、資本調達と工場建設の上1882年(明15)大阪に大阪紡績会社創立、栄一は相談役。中国・インドから棉花を輸入し綿布を輸出するまでに成長、日清日露戦争を経て発展する。25年史は沿革と現況を7区分で記述し、工場写真を多く掲載。[1914年(大3)三重紡績と合併し東洋紡績(株)となる]
大塚製靴(株) 大塚製靴 株式会社五十年 : 老舗の近代化 2003 1950年に個人商店大塚商店を株式会社に改組してからの50年史。創業からの沿革は1976年「大塚製靴百年史」として刊行している。「株式会社五十年」では、序章として1872年大塚岩次郎が開業した大塚商店の歴史を記述。本章は戦後の歩みを5章に分け、経営史を中心に述べている。多角経営せず技術を誇る製靴一筋に歩んだこと、同族による独立経営を維持したことが特徴。執筆は外部研究者に委託、索引付。
(株)大林組 大林組八十年史 1972 1864年大阪の商家に生まれた大林芳五郎が1883年に上京、宮内省出入りの請負業者の下で働く。皇居工事・鉄道工事・陸軍兵舎工事などに精勤した後、大阪に戻る。1892年製紙所工場工事を落札したのを機に独立、請負業を創業する。1903年大阪で開催された内国勧業博覧会の会場建設を請負い、また1970年大阪万博でも多くの施設を建設する。80年史は第1編創業と成長の時代、第2編発展の時代、第3編戦後の再建と新発展の時代、第4編最近10年の大林組、の4部構成、索引付。
大林組百年史 1993 「百年史」は第1部創業から終戦まで、第2部戦後復興から高度経済成長まで、第3部東京本社設置から創業100年まで、の3部構成で、別冊資料編付。どの時代もあらゆる産業分野での建築工事に進出していった様子が描かれている。
オーベクス(株) オーベクス100年史 1993 明治初期洋風化が鼓舞され、渡欧した益田孝が帽子の国産化を着想し、帰国後1889年渋沢栄一らと共に有限責任日本製帽会社設立。生産開始したものの業績不振により1892年解散し、新たに東京帽子(株)を設立して権利義務を継承、栄一は初代取締役会長。社史は戦前のフェルト帽製造の歴史と戦後の経営多角化、1985年にオーベクス(株)と社名変更して経営改革するまでの通史を4章に分けて記載。第5章部門史では、「帽子」「アパレル」「ヘルメット」「ペン先」の製品別に歴史と現状を記載している。
沖電気工業(株) 進取の精神:沖電気120年のあゆみ 2001 広島出身の沖牙太郎は1874年27歳で銀細工師の腕を資本に上京、工部省で電信技術に携わる。1881年に電機製造・販売の明工社を創立、電話機を製造する。沖電機工場、沖商会と組織変更し、浅野総一郎(後に会長)・渋沢栄一らの出資を得、1912年沖電気株式会社となる。社史はこれまでに50年史、90年史、100年史が刊行されており、120年史ではコンピュータ・ネットワークが出現した1960年以降の40年間を詳述。
沖縄電力(株) 沖縄電力30年史 2003 沖縄の電気事業は1910年(明43)那覇市に設立の沖縄電気に始まり、大正から昭和にかけ名護電灯、宮古電灯、八重山電気が開業。戦時下配電統制令により1943年(昭18)沖縄の4社も九州配電に統合され、同社の沖縄支店および営業所となる。戦災で電気事業は全て崩壊。戦後沖縄が米軍施政権下に置かれる中、民間の群小電気供給業者が起こる。1954年(昭29)米国民政府は発送電を運営する琉球電力公社を設立、配電は民間が運営する方針をとる。1972年(昭47)本土復帰により、琉球電力公社を継承し発送配電を一体化した特殊法人沖縄電力(株)が設立される。1988年(昭63)民営に移行。30年史は既刊の15年史を要約した「15年のあらまし」、以降の歩みをまとめた通史と部門史、資料からなる。付属のCD-ROMには30年史全頁PDFと、映像にまとめた沿革等が入っている。
小田急電鉄(株) 小田急五十年史 1980 大分出身の衆院議員利光鶴松(としみつ・つるまつ、1863-1945)は東京市街鉄道の設立に関わり実業界へ進出。鉄道の動力確保に1910年(明43)鬼怒川水力電気を創立。1923年(大13)には小田原急行電鉄を創立し沿線開発などの事業を進めるが、1941年(昭16)鬼怒川水力電気と合併して小田急電鉄と改称。業績向上を図り翌年東京横浜電鉄に合併して東京急行電鉄となる。戦後1948年(昭23)には分離し新たな小田急電鉄を設立。路線の拡張や経営多角化を図り発展する。50年史は沿革・現況・資料からなり、交通網と地域社会・産業の発展に貢献してきた経営努力の歩みを綴る。西武鉄道との間に起った“箱根山戦争”についても一節を割く。社史編纂の経緯をあとがきに詳述。
小野田セメント(株) 回顧七十年 1952 1881年創業のセメント製造会社は1891年有限責任小野田セメント製造(株)と改称。内外に業容を拡大するが敗戦により海外の工場を失う。しかし積極経営で損失を克服、1951年小野田セメント(株)と社名変更する。70年史は前半が年代ごとの沿革、後半は工場・品質・福利厚生等の資料編。[1994年秩父セメントと合併し、秩父小野田セメント(株)となる]
小野田セメント製造(株) 小野田セメント製造株式会社創業五十年史 1931 1881年山口藩の理財家笠井順八は士族救済と授産のために、わが国初の民間セメント会社として山口県原狭郡西須恵村(今の小野田市)にセメント製造会社を創設。1891年有限責任小野田セメント製造(株)と改称。輸出により外貨を獲得し、朝鮮・満州にも進出。50年史は前半で沿革を述べ、後半は支社・工場の現況と資料編。写真・図表目次と総索引付。
オリエンタル写真工業(株) オリエンタル写真工業株式会社三十年史 1950 明治期から輸入に依存していた写真感光材料の国産化を志した菊池東陽(きくち・とうよう、1883-1939)は、米国で乳剤研究の後に感光乳剤製法を完成。帰国して会社設立準備にかかり渋沢栄一の紹介で植村澄三郎(うえむら・ちょうざぶろう、1862-1941)を会長に、1919年(大8)オリエンタル写真工業を設立。渋沢家の写真師江木写真店の五十嵐与七が役員に加わる。印画紙を発売し好評を得、輸出も開始する。業績を伸ばし工場を拡張し、写真の啓蒙雑誌『フォトタイムス』を発行、人材育成のためオリエンタル写真学校を創設。新製品を開発して業容を拡大する。渋沢栄一等の写真入り30年史は写真材料の解説や創業者の交友関係を含め、創業前後からの歩みを5章にわたり丁寧に記述。巻末に役員小伝、関係会社略史付。渋沢秀雄(しぶさわ・ひでお、1892-1984、栄一四男)は監査役。[2000年(平12)サイバーグラフィックス(株)と社名変更]
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