情報資源センターだより

49 長岡の人々と渋沢栄一 : 『渋沢栄一伝記資料』の記述から

『青淵』No.803 2016年2月号|情報資源センター 専門司書 門倉百合子

 渋沢栄一は経済基盤整備と産業振興のため日本全国を訪れていますが、新潟県中部の長岡にも生涯に5回足を運んでいます。そこで長岡の人々と栄一との関係について、『渋沢栄一伝記資料』(以下『伝記資料』)の記述を中心に追ってみました(『伝記資料』中のカタカナはひらがなに、漢数字はアラビア数字に直しました)。

渋沢栄一の長岡訪問と交流した人々

 栄一が初めて長岡を訪れたのは、1886(明治19)年6月、46歳のときでした。『伝記資料』の記述は次のように始まります。「17日晴 午前6時柏崎を発し10時関原に至る、長岡第六十九銀行三島・岸其他数名来り迎ふ、相伴ふて長岡に抵る、三島・岸等の周旋にて山田氏の別業に抵る」(第29巻p444、渋沢栄一日記より)

 ここに登場する「三島・岸、山田」はそれぞれ三島億二郎岸宇吉山田又七です。三島と岸は第六十九国立銀行を1878(明治11)年創立するに当たり、第一国立銀行頭取の栄一の指導を仰いでいます。岸は『伝記資料』の北越鉄道や宝田石油の項目にも登場し、更には竜門社の社員にも名前を連ねていて、栄一と深い交流があったことがうかがえます。栄一は更に岸の伝記『岸宇吉翁』(小畔亀太郎、1911)に序文を寄せています。この伝記を編集出版した小畔(こあぜ)亀太郎も長岡の人で、竜門社社員です。

 一方で山田は1893(明治26)年に宝田石油会社を創業し、後に栄一らの忠告を受け地元の中小石油会社を合併しました。石油関係では他に、宝田石油専務で長岡商業会議所初代会頭の渡辺藤吉や、北越石油創業者の一人小坂松五郎も『伝記資料』に登場しています。

 栄一の第2回目の長岡訪問は、1901(明治34)年4月、61歳のときでした。このときも岸宇吉始め第六十九銀行関係者や、市内の商工業者の人々と交流をしています。そして第3回目の訪問は1905(明治38)年7月、65歳のときでした。「13日......午前11時半長岡着、直に北越鉄道会社に抵り、社員一同に一場の訓示を為し、多人数の歓迎を受けて同地若松に投宿す」(第29巻p506、渋沢栄一日記より)

 北越鉄道は1894(明治27)年栄一が創立発起人で出願、翌年設立されました。岸宇吉は栄一と共に監査役を務めています。『伝記資料』には栄一と共に鉄道計画に尽力したとして、書籍商目黒十郎らの名前が記されています。また創立委員の一人梅浦精一は長岡出身で、栄一と北越石油を発起しています。彼は大蔵省から実業界へ転じ、東京石川島造船所や東京商業会議所、電話会社などでも栄一と大いに関わりました。栄一とは国内外の旅行もしばしば同行し、『伝記資料』にも数多く登場しています。

 第4回目の訪問は1910(明治43)年8月、栄一70歳のときでした。このときも第六十九銀行、宝田石油、長岡銀行関係者らと交流し、演説会や歓迎会に出席しています。そして第5回目は1917(大正6)年10月、栄一は77歳でした。「6日 午前6時42分王子を発し、午後7時40分長岡に着。直ちに川上佐太郎氏邸に投宿せらる。」(第56巻p198、『竜門雑誌』第354号より)

 川上佐太郎は長岡の米穀商で、このとき栄一は川上邸に2泊し、修養団長岡支部のための講演を行いました。長岡支部はこの年5月に設立され、発会式には旧藩主牧野忠篤子爵も来席したことが『伝記資料』に記載されています。牧野は大日本蚕糸会会頭も務めており、そこでも栄一との関わりがありました。

長岡ゆかりの人々と渋沢栄一

 栄一は長岡を訪問したときばかりでなく、東京での様々な場面でも長岡出身の人々との交流がありました。北越石油発起人の一人である大橋佐平は東京で博文館を創立しましたが、栄一はその創立20周年記念会で演説しています。そして息子の大橋新太郎とは東京商業会議所や東京瓦斯はじめ様々な事業で協力し、1909(明治42)年の渡米実業団にも同行しました。栄一は1921(大正10)年の訪米の際、テキサスで油田経営をしていた岸吉松(岸宇吉の息子)と会い、彼を大橋新太郎に紹介しています。大橋新太郎は栄一の日記にもしばしば登場し、書簡のやりとりも多くあったことが『伝記資料』でわかります。

 長岡藩家老河井継之助に仕えた外山脩造は、慶應義塾を出て大蔵省に入りました。その後栄一の斡旋で大阪へ出向き、第三十二国立銀行の業務指導者となりました。実業界へ転じてからも栄一と関わり、関西で多くの事業に携わりました。一方で外山と共に慶應義塾から大蔵省へ入った小林雄七郎(「米百俵」で知られる小林虎三郎の弟)は、栄一の下で銀行制度の整備に尽力し、長岡の銀行設立を推奨しています。

 東京帝国大学総長を務めた長岡出身の小野塚喜平次は、東京帝大のヘボン氏寄付講座や新聞研究室の設置をはじめ、国際聯盟協会、日米関係委員会、カーン海外旅行財団、理化学研究所などの事業で栄一と関わりがありました。例として『伝記資料』には「昭和4年1月22日 是日栄一、阪谷芳郎と連名にて、寄付者総代として、東京帝国大学総長小野塚喜平次に、新聞学研究のための奨学金寄付申込書を提出す。」(第45巻p489、綱文)という記述があります。

小山正太郎画
小山正太郎画(渋沢史料館
『常設展示図録』p56より)

 最後にご紹介するのは福島甲子三(かしぞう)と小山正太郎です。福島は栄一の抜擢で東京水力電気および東京瓦斯で活躍後、郷里の宝田石油の専務取締役となりました。そして彼が栄一の古希祝に贈った画帖の中の絵は、長岡出身の画家・小山の作品でした。「論語算盤説は、福島甲子三氏が先生に進呈せる書画帖の中にある、小山正太郎画伯の筆になれる絹帽と太刀、論語と算盤との図を見て旧師三島中洲翁の作れる所にして、これより所謂論語算盤説有名となれり。」(第41巻p255、『竜門雑誌』第519号 山田済斉の演説より)

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 長岡出身の人々と渋沢栄一との交流について、『伝記資料』の記述から一部をご紹介してきました。『伝記資料』の本文は現在デジタル化してインターネットで公開する準備を進めております。公開の暁にはどうぞ上記以外の人名や機関名などでも縦横に中身を検索いただき、様々な角度からご利用ください。


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