渋沢栄一詳細年譜

天保11〜慶応3年(1840〜1867)〔 0歳〜27歳 〕

最終更新日:2018年8月7日 公開日:2013年3月11日
社会の主なできごと : 安政元年 安政の大獄/ 安政7年3月 桜田門外の変/ 文久4年6月 池田屋事件。 7月 禁門の変。 8月 下関事件、第一次長州征討/ 慶応2年1月 薩長連合。 6月 第二次長州征討開始。 8月 徳川慶喜、宗家相続/ 慶応3年(1867)4月 パリ万国博覧会開幕。 10月 大政奉還。 12月 王政復古の大号令
身 辺 : 安政5年12月7日 尾高勝五郎三女千代子と結婚/ 文久2年2月 長男市太郎誕生(夭折) / 文久3年8月24日 長女宇多子誕生/ 元治元年2月8日 一橋家仕官/ 慶応3年正月11日 徳川昭武随員として渡欧(明治元年11月3日帰国)


この詳細年譜は、『渋沢栄一伝記資料』綱文を年月日順に配列したものです。(⇒凡例

天保 | 弘化 | 嘉永 | 安政 | 万延 | 文久 | 元治 | 慶応元 | 慶応2 | 慶応3 / 凡例

天保11年(1840)
〔0歳〕
事 項 『伝記資料』
2月13日 [幼少年時代]
武蔵国榛沢郡安部領血洗島村に生る。幼名市三郎又栄治郎、幼少時代の名乗美雄、後通称を栄一郎、名乗を栄一と改め、青淵と号す。仕官時代一時篤太夫、尋で篤太郎と称せしことあり。父は通称市郎右衛門、名乗美雅、晩香と号す。母はエイ。家は世世農を以て本業とし、傍ら養蚕と製藍とを兼ね営む。
第01巻
p.1-p.61
【DK010001k】

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弘化2年(1845)
〔5歳〕
事 項 『伝記資料』
-- [幼少年時代]
栄一幼時より強健・怜悧にして、剛情なれども、忍耐強く、天性秩序を重んじ、父母に孝、兄弟に友なり。是年初めて父に句読を授けられ、尋で従兄尾高惇忠に従ひて学を修む。又書法を初め父に、尋で伯父誠室に、武芸を従兄渋沢新三郎に学ぶ。
第01巻
p.61-p.92
【DK010002k】

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嘉永6年(1853)
〔13歳〕
事 項 『伝記資料』
-- [幼少年時代]
是年より家業を助け、農耕・養蚕のほかに藍葉の買入、藍玉の製造及び販売に従事す。又是年米使ペリーの渡来に刺戟せられ、栄一の胸中攘夷の念を萌す。
第01巻
p.92-p.168
【DK010003k】

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安政元~6年
(1854~1859)
〔14~19歳〕
事 項 『伝記資料』
元年
--
[幼少年時代]
叔父保右衛門に随ひて江戸に出で、書籍箱と硯箱とを購ひ、帰りて父に其奢侈を誡めらる。
第01巻
p.168-p.173
【DK010004k】
2年
--
[幼少年時代]
是より先嘉永六年より病める姉の看護に心を用ゐしが、是年姉の病に関する迷信を打破す。
第01巻
p.173-p.180
【DK010005k】
2年~3年 [青年志士時代]
十六・七才以後、従兄渋沢喜作と共に近傍諸村の若者頭等より推されて其指揮に当る。
第01巻
p.181-p.183
【DK010006k】
3年
--
[青年志士時代]
父に代り領主安部摂津守の岡部の陣屋に到りて、用金の命を受く。代官某倨傲にして、栄一を侮蔑す。栄一其の圧制を痛憤し、封建の弊に対し強烈なる反感を懐くに至る。
第01巻
p.183-p.192
【DK010007k】
3年~6年 [青年志士時代]
商用を以て信濃・上野及び武蔵秩父地方を巡回すること年に四回、時に従兄尾高新五郎・同長七郎等と同行し、多く詩文を作る。又江戸に遊びて詩文あり。而して家に在る時は乃ち書を読み、剣を学び、志士との交遊漸く広し。
第01巻
p.192-p.217
【DK010008k】
5年
12月7日
[青年志士時代]
尾高勝五郎第三女千代子を娶る。
第01巻
p.217-p.219
【DK010009k】

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文久元~3年
(1861~1863)
〔21~23歳〕
事 項 『伝記資料』
元年 春 [青年志士時代]
江戸に出でて儒者海保漁村の門に遊び、又剣客千葉栄次郎の道場に出入す。居ること二ヶ月余にして帰る。
第01巻
p.219-p.224
【DK010010k】
2年
2月(?)--
[青年志士時代]
是より先、従兄尾高長七郎坂下門事件に連座せるを以て捕吏の検察頗る厳なり。是月栄一長七郎に勧めて、難を信州及び京都に避けしむ。
第01巻
p.224-p.229
【DK010011k】
2年
2月--
[青年志士時代]
長男市太郎生まる、夭す。
第01巻
p.229
【DK010012k】
3年
8月24日
[青年志士時代]
長女宇多子生まる。
第01巻
p.229-p.230
【DK010013k】
3年
8月--
[青年志士時代]
是年春再び江戸へ出で海保塾及び千葉塾に入る。居ること四ヶ月、其間屡々帰郷して攘夷の事を議し、七月曩に坂下門事件に闘死せる河野顕三の春雲楼遺稿を刊行す。是月従兄尾高惇忠・同長七郎・渋沢喜作等と謀り、兵を挙げて火を横浜港に放ち、外人を鏖殺し、以て攘夷を実行せんとし、来る十一月十二日の冬至を期し先づ高崎城を攻略して之を本拠とするに決す。而して此前後武器等の準備を為す。
第01巻
p.230-p.249
【DK010014k】
3年
9月13日
[青年志士時代]
栄一既に身を以て国に殉ぜんと決意せしを以て是夜父に請ひて家督を辞せんとし、懇談夜を徹す。暁に至りて父遂に之を允す。尋いで翌十四日挙兵準備の為め江戸に出で月余にして帰る。是日急使を京都に遣して尾高長七郎の帰京を促す。栄一江戸滞在中偶々一橋家用人平岡円四郎等の知遇を受くるに至れり。
第01巻
p.249-p.259
【DK010015k】
3年
10月29日
[青年志士時代]
是より先是月二十五・六日頃尾高長七郎京都より帰京す。是夜長七郎上国の形勢を説きて、挙兵の無謀なる所以を切論す。栄一等論難大いに努めたるも、遂に開悟し、中止に決す。
第01巻
p.259-p.268
【DK010016k】
3年
11月8日
[青年志士時代]
渋沢喜作と共に伊勢参宮と称し嫌疑を避けて出郷し、江戸を経て一橋家用人平岡円四郎の家来の名義を以て京都に赴く。二十五日京都に入り、志士と交はり、歳末伊勢大神宮に参拝す。
第01巻
p.268-p.276
【DK010017k】

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元治元年(1864)
〔24歳〕
事 項 『伝記資料』
2月8日 [亡命および一橋家仕官時代]
是より先、尾高長七郎、栄一及び渋沢喜作の攘夷計画を記せる書翰を懐中して縛に就ける旨を報じ、栄一等を警む。栄一喜作と共に苦心焦慮後図を謀る、平岡円四郎栄一等を救はんとし推挙せるを以て、栄一喜作と共に一橋家に仕ふ。栄一は是日奥口番・御用談所下役出役を命ぜられ、尋いで四月中旬御徒士に進む。
第01巻
p.277-p.292
【DK010018k】
2月-- [亡命および一橋家仕官時代]
平岡円四郎の密旨を承けて大阪に赴き、摂海防禦御台場築造御用掛折田要蔵の門に入る。四月帰京す。
第01巻
p.292-p.302
【DK010019k】
2・3月 [亡命および一橋家仕官時代]
西郷隆盛を其旅宿相国寺に訪ひ、豚鍋の饗応を受けて談論す。
第01巻
p.302-p.307
【DK010020k】
5月-- [亡命および一橋家仕官時代]
渋沢喜作と共に人撰御用の為関東に下り、武州・総州及び野州の一橋領を巡回すること百余日、壮士約五十人を募り、九月之を率ゐて京都に帰る。此行江戸に於て尾高長七郎の救解を講じて成らず、又郷里に帰省せんとして果さず、密に父及び妻子に会せしのみ。
第01巻
p.307-p.324
【DK010021k】
9月-- [亡命および一橋家仕官時代]
是より先、本年六月平岡円四郎暗殺せらる。黒川嘉兵衛之に代りて用人たり。栄一等の帰京するに及び、嘉兵衛之を遇すること円四郎の時の如し。
第01巻
p.324-p.331
【DK010022k】
12月-- [亡命および一橋家仕官時代]
筑波挙兵の徒武田耕雲斎等、路を北国に取りて京師に入らんとす。一橋慶喜鎮撫の命を奉じ、兵を率ゐて先づ大津に、更に進んで海津に到る。栄一渋沢喜作と共に之に随ふ。
第01巻
p.331-p.335
【DK010023k】

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慶応元年(1865)
〔25歳〕
事 項 『伝記資料』
1月15日 [亡命および一橋家仕官時代]
小十人並に進み、御用談所調方出役を兼ぬ。栄一身を持すること謹厳にして、上司の深く信任する所となる。
第01巻
p.335-p.338
【DK010024k】
3月-- [亡命および一橋家仕官時代]
是より先、二月下旬歩兵取立御用掛を命ぜらる。是月備中・播磨・摂津・和泉四ヶ国に於ける一橋領を巡廻し、兵四百数十名を募集して帰る。此時備中寺戸村に阪谷朗廬を訪ふ。
第01巻
p.338-p.365
【DK010025k】
4月23日 [亡命および一橋家仕官時代]
学問所俗事役兼務を命ぜらる。後八月之を免ぜらる。
第01巻
p.365
【DK010026k】
8月19日 [亡命および一橋家仕官時代]
是より先、一橋家の財政充実を図らんとし、三案を建言して容れらる。是日勘定組頭並に転じ、御用談所出役を兼ぬ。
第01巻
p.365-p.368
【DK010027k】
慶応元年秋冬
2年春
[亡命および一橋家仕官時代]
一橋家財政の充実を図らんが為め、兵庫・大阪・備中・播磨に出張し、年貢米を兵庫に直売し、備中に硝石製造所を設立し、又藩札を発行して播州木綿の買入に便にす。帰京後其功により勘定組頭に進めらる。
第01巻
p.368-p.406
【DK010028k】

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慶応2年(1866)
〔26歳〕
事 項 『伝記資料』
7・8月 [亡命および一橋家仕官時代]
将軍徳川家茂薨じて嗣なし。幕府一橋慶喜を迎へて将軍と為さんとす。栄一喜作と共に原市之進に就て其不可なる所以を切論す。行はれず。
第01巻
p.406-p.412
【DK010029k】
8月11日 [亡命および一橋家仕官時代]
是より先、一橋慶喜将軍の名代として長州に出征せんとす。栄一従軍を命ぜられ、是日勘定組頭を以て御使役に兼任し、而して御用人手附を仰付けらる。栄一乃ち手書及び懐剣を夫人に贈りて別を告ぐ。
第01巻
p.412-p.427
【DK010030k】
9月7日 [幕府仕官時代]
幕臣に転じ、陸軍奉行支配調役と為る。幾許もなく命に依り書院番士大沢源次郎を逮捕し、武勇を称揚せらる。然れども怏々として楽まず、十一月に至り致仕せんことを決意す。
第01巻
p.428-p.435
【DK010031k】
秋(?) [幕府仕官時代]
将軍慶喜の命に依り市川斎宮に就き電信の技を伝習す。
第01巻
p.435-p.436
【DK010032k】
11月29日 [幕府仕官時代]
是より先、将軍徳川慶喜弟徳川昭武を明年仏国巴里に開かるべき万国博覧会に派遣し事畢るの後昭武を同国に留学せしめんとす。是日栄一特に内命を承けて之に随行するに決す。尋で十二月七日俗事を取扱ふ可しとの命を受け、同月二十一日班を勘定格に進めらる。此時栄一未だ男子なかりしを以て義弟平九郎を養嗣子と定む。
第01巻
p.436-p.450
【DK010033k】

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慶応3年(1867)
〔27歳〕
事 項 『伝記資料』
正月11日 [幕府仕官時代]
徳川昭武に随ひ、横浜より乗船して仏国に向ふ。上海・香港・柴棍・新嘉埠・錫蘭・亜丁・蘇士・該祿・亜歴散大・馬塞里・黎昻等を経て、三月七日巴里に着し、カプシンヌ街のガランドホテルに館す。
第01巻
p.450-p.485
【DK010034k】
3月24日 [幕府仕官時代]
徳川昭武、外国奉行向山一履等を随へて仏国皇帝ナポレオン第三世に謁す。栄一陪せざりしも、仏国皇帝への献上品を宮中へ送致する事に当る。尋いで同月二十八日軽気球を観る。
第01巻
p.485-p.489
【DK010035k】
3月29日 [幕府仕官時代]
徳川昭武、ナポレオン第三世の催せる観劇会に出席す。栄一之に陪す。翌四月朔日ミニストル館に舞踏を見るに陪し、同月二日アルク・ド・トリヨンフに登る。
第01巻
p.489-p.491
【DK010036k】
4月3日 [幕府仕官時代]
徳川昭武、チユイロリー宮に於ける舞踏を観る。栄一之に陪す。尋いで同月十二日シヤルクランの館舎に移転し、同月十五日大砲器械貯所同月二十四日巴里市街埋地道を観るに陪す。
第01巻
p.491-p.497
【DK010037k】
5月4日 [幕府仕官時代]
是より先、四月晦日ボワデブロンギユの競馬を観るに陪す。是日ナポレオン第三世、大観兵式を行ふ。露国皇帝等と共に徳川昭武も亦招待せらる。栄一之に陪す。
第01巻
p.497-p.502
【DK010038k】
5月11日 [幕府仕官時代]
是より先、五月七日徳川昭武、仏帝・魯帝・孛王と共にヴエルサイユに遊ぶ。栄一之に陪す。是日昭武に随ひ巴里パツシー郷ペルゴレイズ街五十三番の家に転宿す。
第01巻
p.502-p.507
【DK010039k】
5月18日 [幕府仕官時代]
徳川昭武、万国大博覧会を観る。栄一之に陪す。五月二十九日・六月二日・同月二十一日・八月三日亦同じ、其間日本出品に関する批評を調査し、水道貯水池、ボワデブロンギユ・巴里郊外等を観覧、又は遊覧するに陪し、且つ各国巡遊の準備を為す。
第01巻
p.507-p.531
【DK010040k】
8月6日 [幕府仕官時代]
徳川昭武、大博覧会のこと既に畢るを以て締盟各国を歴訪して親睦を敦くせんが為、是日巴里を発し、先づ瑞西に向ふ。栄一も亦之に随ふ。発するに先だち随行員の員数に付外国掛と昭武従者との間に紛争ありしも、栄一之を調停す。翌七日ベルンに抵る。
第01巻
p.531-p.537
【DK010041k】
8月8日 [幕府仕官時代]
徳川昭武、瑞西国ベルンに於て同国大統領に謁す。居ること数日、栄一も亦、観兵式・武器庫・時計工場・電信機製造所等を観覧するに陪す。
第01巻
p.537-p.542
【DK010042k】
8月20日 [幕府仕官時代]
是より先、八月十六日瑞西を発して和蘭に赴き、同月十八日ヘーグに到着す。是日徳川昭武ヘーグに於て和蘭国王ウイルヘルム第三世に謁す。居ること数日、栄一も亦、軍艦製造所の観覧、シーボルト別荘に於ける清遊等に陪す。一行の同国滞在中幕府留学生林研海、伊東玄伯等周旋大いに勉む。
第01巻
p.542-p.548
【DK010043k】
8月28日 [幕府仕官時代]
徳川昭武一行前日和蘭国より白耳義国に入る。是日昭武ブラツセルに於て白耳義国王レオポールド第一世に謁す。尋いで翌二十九日より陸軍学校・舎密工場・アンベルス砲台・炮車・諸器械・弾丸製造所・リエージユー銃砲製造所・シラアンの製鉄所・マリートヲワニエトの鏡及び硝器製造所・地理学校・観兵式等を観覧するに陪す。九月九日再び王に謁するや、王昭武に説きて曰く、鉄は文明国の必需品にして強大国は之を用いること多く、弱小国は之を用いること少し、貴国も亦須く鉄の需要を盛にすべし、而して之を購ふは宜しく白耳義国よりすべし、と。栄一側に在りて之を聞き、泰西の俗、王者も亦商売の顰に倣ふかと、奇異の感を懐く。
第01巻
p.548-p.558
【DK010044k】
9月27日 [幕府仕官時代]
是より先、九月十二日白耳義国を発して巴里に帰着し、居ること八日、同月二十日徳川昭武に随ひ巴里を発して伊太利に向ふ。同月二十四日国都フロレンスに着し、翌日より国王の別宮・議事堂・石細工所等を観るに陪す。是日昭武フロレンスに於て国王ヴイクトル、エマヌエル第二世に謁す。国王昭武以下に勲章を贈ること差あり、栄一も亦五等勲章を贈らる。尋いで十月朔ミラン、同月五日ピサ等遊覧するに陪す。
第01巻
p.558-p.569
【DK010045k】
10月8日 [幕府仕官時代]
徳川昭武伊太利リボルノ港より英国軍艦に搭じて仏国に向ふ。十一日マルタ島に着し、居ること数日砲台・船渠・製鉄所等を見るに陪す。尋いで十六日マルタ島を発し、二十二日マルセーユに上陸して翌日巴里に帰着す。此行艦マルタ島を発するや、機関破損して進退の自由を失ふ。艦長因りて進止を昭武に候す。昭武栄一の言に由りて之を艦長に一任す。艦長乃ち進航するに決し、辛うじて帆走し、マルセーユに到着するを得たり。
第01巻
p.569-p.579
【DK010046k】
11月9日 [幕府仕官時代]
是より先、徳川昭武一行十月二十四日より巴里に留まること十一日、十一月五日昭武に随ひ巴里を発して英国に向ふ。同七日倫敦に着し、八日議院を観るに陪す。是日昭武、英国女王ヴイクトリヤにウインゾル離宮に謁す。尋いで十日よりタイムス新聞社・図書館・大砲製造所機械製造所・閲兵式・水晶宮・英蘭銀行・軍艦製造所等を観るに陪す。
第01巻
p.579-p.596
【DK010047k】
11月22日 [幕府仕官時代]
徳川昭武、前日英国を発して是日巴里に帰着す。是に於て昭武の各国礼問の事畢り、是より専心修学に従事す。栄一公私の事務を負荷して寸隙なし。
第01巻
p.596-p.612
【DK010048k】

「渋沢栄一詳細年譜」凡例

この詳細年譜は、『渋沢栄一伝記資料』綱文を年月日順に配列したものです。

  1. 日時、固有名等は、『渋沢栄一伝記資料』に再録された歴史的な資料に基づいています。
  2. ページ冒頭に付記した年齢は、当該年の誕生日における渋沢栄一の満年齢を示します。
  3. 身辺欄には、『渋沢栄一伝記資料』第29巻・第57巻より、家庭生活など主に栄一の身辺のできごとを要約・掲載しています。
  4. 事項欄の[ ]には、『渋沢栄一伝記資料』第1巻から第3巻の章名と、第29巻・第57巻収載「第3部 身辺」以下の章名を掲載しています。
  5. 事項欄の【 】には、『渋沢栄一伝記資料』第58巻「事業別年譜」の事業名を掲載し、事業一覧へリンクしています。