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『渋沢栄一伝記資料』第53巻
最終更新日: 2014. 3.25
公開日: 2013.12.24

第3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 明治四十二年−昭和六年 (二十四)
- 第2部 実業・経済
- - 第3章 商工業(承前)
- - - 第16節 ホテル
- - - - 第1款 株式会社帝国ホテル(承前)

綱  文  【DK530102k】
明治42年7月16日(1909年)

是日栄一、山中商店ニュー・ヨーク支店主任林愛作ヲ、当会社ノ取締役兼支配人トシテ起用スル件ニ関シ、松本重太郎ニ書翰ヲ送リ、其尽力ヲ依頼ス。
【 53巻 p.532〜534 】

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 本文
   以下は上記綱文の典拠として『伝記資料』に収載された資料の本文です。

渋沢栄一 日記  明治四二年 (渋沢子爵家所蔵) 【第53巻 p.532】 DK530102k-0001 ページ画像

七月十六日 晴 大暑
○上略
午前大阪藤田・松本二氏ニ書状ヲ裁シ、林愛作氏ヲ帝国ホテルニ任用ノ事ヲ書送ス
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渋沢栄一書翰  松本重太郎宛 (明治四二年)七月一六日 (林愛作氏所蔵) 【第53巻 p.532】 DK530102k-0002 ページ画像

其後以外御疎情ニ打過候得共、老台益御清適御坐可被成抃賀之至ニ候然者一事特ニ懇願仕候ハ、貴地山中商店紐克之主任者林愛作氏を此度帝国ホテル会社ニ於て取締役兼支配人ニ撰任いたし度ニ付而ハ、従来同氏山中店と格別之縁故も有之、尋常一様ニてハ辞任之事被行申間敷ニ付、何卒老台ニ於て林氏将来之得失、殊ニ其軽重等をも御講究被下是非とも山中店及本人をも御説得之上、小生等之企望行届候様御尽力被成下度候、元来此帝国ホテル会社ハ明治二十三年より開業せしものニて、表面営利会社ニハ候得共、先般来追々海外人之来遊ニ関し旅舎之必要有之候より、其筋ニても大ニ奨励せられ、終に帝室ニ於て主なる資本御支出之上設立せし次第ニて、爾来外国人ニ経営為致候得共、何分不充分ニ付、此度ハ断然日本人ニ主幹を托し度と其人物之撰択ニ種々費心之末、乃ち林氏より外適任者無之と申事ニ相成、益田・大倉両氏其外之人々ニも色々評議を尽し、小生より此段老台ニ相願、山中店へ之説得ハ偏ニ老台之御厚配を仰候都合ニ御坐候、尤も林氏東京滞在中一寸其段内話ハ仕置候間、尚御聞合も被成下、呉々も前陳請願之義相達候様御取扱被下度候、右拝願まて早々如此御坐候 敬具
  七月十六日
                       渋沢栄一
    松本重太郎様
         梧下

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林愛作談話筆記 (財団法人竜門社所蔵) 【第53巻 p.532-534】 DK530102k-0003 ページ画像

                   昭和一四年二月二三日
                     於林邸 石川正義筆記
 明治四十二年に私がニユーヨーク(当時氏は、ニユーヨーク在日本古美術商山中商店主任)より帰朝して、大阪の山中に暫く滞在してお=== ★★ここから第53巻 p.533 ★★ ⇒ページ画像 ===りました。その時大倉喜七郎さんや、大阪の藤田伝三郎氏・松本重太郎氏等が直接にや、又手紙で、今度帝国ホテルで外人の支配人を廃して日本人にすることにしたが、適任者がなく是非君に御願ひしたいと再三勧告して来ました。
 私は永く山中商店におりまして、いろいろ向ふにも深い取引関係があり、ニユーヨークの生活にも慣れておりますし、どうもホテルに入ることを躊躇したので、頑として応じませんでした。
 ところが其後渋沢子爵などよりも、松本重太郎さん等に、たつての私の帝国ホテル入りの勧誘を依頼○前掲書翰参照して来まして、私の知らない間に、山中商店の方に話をつけてしまつたのです。
 こうなつては、私も決心せざるを得なくなりまして、それでは御懇望に応じますと答へ、その代り懸案になつてゐる帝国ホテル改築を私が実行する事と、私が支配人になつた以上、株式会社帝国ホテルでなく、林愛作の帝国ホテルと考へてすべてを一任してもらひたいと答へました。渋沢さんは、そう云ふ熱心な人なら猶更結構、林愛作のホテルで充分思ふ様に経営してもらひたいとの事でした。こうして話が漸くまとまつたのはたしか四十二年の八月だつたと思ひます。
 偖、私がホテルに入つてから、私もニユーヨークで色々こうした方面には経験もあり、自信もないことはありませんでしたので、私の抱負をどんどん実行し、幸ひ経営もうまく行つて利益をあげて行く事が出来ました。
 たしか大正二年頃でしたか、愈々ホテル新建築の話が具体化して来ましたので、私は一人で取あへず設計者と建築者を物色することになりました。私はニユーヨーク時代に、建築家ライトと古美術の商売上の関係で昵懇の間でしたので、大正三年頃にたまたまライト氏が日本漫遊で来朝しましたので、ホテルの建築のことを相談した。
 然し、もしライトの設計と、それに基く建築費の目算が重役会で否決されたなら、折角ライトに好い設計をしてもらつても報ひることが出来ないと正直にライトに言つた。するとそれでもよいから、とにかくやつてみようとの事で、東京にゐる間大体の構図をつくつてみた。
 それから大分時日が経つて、大正六年でしたか、愈々土地もきまつて、建築方針も大体確立したので、この際一応大戦直後の欧米の模様も知りたいと思つて、ともかくアメリカに行き、色々視察した結果、ライト氏と最後的な相談のためシカゴで氏と会見した。
 ライトは、私の信頼に感動して、私の信念を貫徹させる為と、日本建築の上に一つの新しい型を創造すると云ふ芸術的抱負のために、利害を無視して、設計を引受けてくれました。それでシカゴより二・三百哩はなれた田舎のライト氏の宅に、私と二人で閉じこもり、私も細かく自分の意見を述べて設計を完成した。その構図と予算の大体を見積つて私は帰朝し、重役会にかけて、三百五十万円以内でやりたいと言つて賛成の決議を得ました。
 それに次いで直ぐ当面した問題は、ライトの複雑な芸術的設計に、誰が責任をもつて建築にあたりうるかと云ふ事でした。日本にも大倉組・清水組等ありますが、こう云ふ日本の請負業者はどうしても信頼=== ★★ここから第53巻 p.534 ★★ ⇒ページ画像 ===することが出来ません。それで私は自ら直営の建築を決意し、その建築の技術的責任者としては、当時シカゴにおりましたアメリカ一流のコンストラクシヨン・エンヂニアであるミユラーに依頼することにしました。私はアメリカ時代よりミユラーにも知己を得てゐましたが、人格識見、技術とも優れた建築家です。
 早速私はこのミユラーに、叮重に、来朝とホテル建築を乞ふてやりましたところ、容易に承諾しません。それで最後には、どうか日本の文化のためにと懇望して、遂に承諾を得て、愈々来朝し、建築にとりかゝることにしました。
 次に当面したのは建築材料で、その用石は偶然のことより、私とライトが一致して大谷石ときめ、栃木県日光の方で、これも偶然に発見した小さな石山を冒険的に買ひとつて、遂にその山の石だけで、ホテル全建築に足りる丈の立派な大谷石をとることが出来ました。このつづきは次の時に話しませう。

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渋沢栄一 日記  明治四二年 (渋沢子爵家所蔵) 【第53巻 p.534】 DK530102k-0004 ページ画像

七月二十二日 晴 大暑
○上略 帝国ホテルニ抵リ午餐シ、後小林氏ニ要件ヲ談ス○下略

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T.『渋沢栄一伝記資料』(冊子版)凡例
  T-1.凡例(昭和30年2月 土屋喬雄)より 【第1巻 p.14-16】
  T-2.凡例追補(昭和35年3月 土屋喬雄)より 【第30巻 p.1】

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